11 月 09
|
体験しているのは誰だ
あなたは劇場で映画を鑑賞しています。
主人公の身に降りかかるドラマを、ハラハラしながら見守っています。
そして、物語もいよいよクライマックス。張り巡らされた伏線がつながっていき、主人公は徐々に追い詰められていきます。そして思いも寄らなかった人物が、黒幕として主人公の前に姿を現す…
「…オシッコがしたい!」
あなたは少しばかりジュースを飲み過ぎました。ここまで何とか我慢してきましたが、もう限界のようです。
「ちょっとスミマセン」
あなたはイソイソと席を立ち、トイレに駆け込みます。そして…
…おめでとうございます。心から安心できる瞬間が訪れました。
さて、用を済ませ手を洗っていると、目の前の鏡に自分の顔が映っています。
ここであなたはふと気づきます。
「私は映画の中の主人公などではなかった。ただの観客だ」
さっきまで眺めていた劇場の大スクリーンと、目の前の小さな鏡とが重なっていきます。
この、鏡の中に映っている人物は、誰だ。
あの大きなスクリーンに映っていた人物は、誰だ。
そしてもっと巨大な、現実というスクリーンに映っているのは、いったい誰なんだ。
もう映画の続きなど、どうでも良くなりました。
もっと重大なことに気がつき始めたからです。
****************************
あなたは確かにこの現実の主人公かもしれません。
しかし、実際に体験しているのはあなたではありません。
体験しているのは、あなたの向こう側にいる「観客」です。
そしてその観客こそが、本当のあなたなのです。
我々は映画を観るとき、作品が自分の趣味・嗜好と合致していて、あらゆる面で良くできていたとき、その作品世界に心から魅了されます。我を忘れ、夢中になってのめり込むのです。
そんな時、あなたはもはや主人公です。観客であるということを忘れて、主人公と一体化しています。主人公に起きていることはあなたに起きていることです。実際に主人公として、その映画の出来事を体験しているのです。
これと同じことが、現実でも起きています。
あなたがオギャーと産声を上げて、この世界に現れたときから映画がスタートしました。
最初はなんだかよく分かりません。あなたはこの世界を把握しようと一生懸命です。
そのうち、ストーリーが段々と理解できてきました。自分がどのような役どころで、周りにいる配役がそれぞれどんなキャラクターなのか。舞台設定はどうなのか。
あなたは自分の役回りをどんどん進んで勤めるようになります。それらしく振る舞うことがますます板についてきます。
あなたはすっかりこの現実世界の主人公になりきってしまいました。
そして、本当は観客であることを忘れてしまったのです。
私は誰だ
映画はモンタージュという技法を用いて、様々なショットをつなぎ合わせ、一つのストーリーを構築します。
しかし実際には無数の映像を細かくつないでいるだけで、各シーンだけ単独で取り出してみても、そこには何のストーリーも存在しません。
それを時間軸に沿ってつないで観ていく中で、我々が連想してストーリーを作り出しているに過ぎないのです。
つまり、上映されている映像自体には何の意味もなく、各シーンを頭の中でつないでいき、出来上がったストーリーから感じたものを「これこれこういう映画だ」と思っているに過ぎないというわけです。
映画という形態は、あなたの内部でだけ存在しうるものなのです。
連想して感じた様々な内部的体験が映画の本質なのです。
現実も同じです。
我々の目に映るあらゆるものは、それ自体まだ何の属性も持っていません。
あなたはそれを様々な形で関連させ、恣意的に解釈します。この時点でも属性はありません。
あなたは次に「それは楽しい」「それは嫌だ」などと感じます。
あなたにとってのある現実に対して、何らかの感情を感じた。この時、現実は初めて属性を帯びてきます。
これが体験というものです。
あなたが目の前のものに対して思考を働かせ、解釈を試みます。その結果それはあなたにとってある種の属性を帯び、それに対してあなたは何らかの感情を覚えます。
これが「体験する」というプロセスです。
何かを見たから体験したのではありません。その時何かを感じたことが体験なのです。
つまり体験とは、完全にあなたの内部的なものなのです。
ということは、どこかに行き、何かを行い、何かを書き、何かを聞き、何かを喋っているあなたは主人公かもしれませんが、それはあなたではありません。
その時何かを感じているあなた、つまり実際に経験しているあなたこそが本当のあなたなのです。
チケットは無数にある
感じている者こそ自分の本当の「主体」だと気づくと、あなたは現実に急きたてられる主人公の役割から解放されます。
現実は拷問ではなくなります。
あなたは投影されている映像の一部ではなく、それを鑑賞している観客の立場に立つことが出来ます。
そして、元々そうだったのです。
逃れられない唯一のストーリーの呪縛から解き放たれます。
現実は、あなたを不自由に閉じ込めておく檻などではなかったことに気づきます。
今までのあなたは、その映画にのめり込み、主人公と一体化していたため、その視点を持つことが出来ずにいました。
しかし、ちょっと用を足しにいった瞬間に、本当の自分に気づいてしまったというわけです。
「私はどうして、見たくもない映画に必死にのめり込んでいたんだろう」
もうこの作品の続きを見る必要はなさそうです。
あなたは映画館を後にします。そして、本当に見たい映画はどんなものか、想いをめぐらせます。
頭の中に、面白そうな映画のストーリーが浮かんできました。あなたは楽しくなって、思わずウフフと笑いがこみ上げてきます。
目を上げると、正にそんな面白そうな映画の看板がそこにありました。
「これだ。これにしよう」
あなたはウキウキしながらその劇場に入っていきました。
なんとなくですが、面白そうな映画であることは直観で分かりました。
それに気に入らなければ、また別の映画を選べば良いだけのことです。
映画など、星の数ほどあるのですから。
次の映画に移る
この現実を、逃れられない唯一の現実だと信じ込んでいると、観客の視点を持つことは不可能です。
その時あなたは、主人公としてそのストーリーと必要以上に密着してしまい、強力にその現実を固定化してしまいます。結果、似たような現象化が延々と繰り返されることになり、変更はますます困難になります。
はっと気が付いて、観客であることを思い出したら、何が起きるのか。
何も起きません。ただ、本来の視点を取り戻すことが出来るようになります。
今までは主人公として現実に感情移入しすぎていたため、極めて近視眼的な視点しか持ち得ませんでした。これはエゴの視点です。
もっとよく見ようと、読んでいる本に極限まで目を近づけても、ますます読みづらくなるだけです。そこで何とかしようと取り組んでも、暗闇で闇雲に動き回っているようなものです。そんなことをしても上手くいくはずがありません。
そこから一歩引いて、主人公である自分を観察する観客の視点を持ってみる。
それは本来のあなたの視点であり、別の領域から正確な観察を行っているということです。
つまり完全に安全な領域から、全てを見通せているということです。
「志村、うしろうしろ!」
主人公に適切な指示を与えることも可能です(笑)。
大局的な視野でもって、全てを見通すことが出来るようになるのです。
思い出してください。別の領域は可能の領域です。そこに不可能という概念は存在しません。
つまり、あなたがその地点から現実を眺めているとき、その現実は如何様にも変更可能だということです。
あなたがその視点を持つだけで、現実は自動的に望むように変化していきます。なぜなら「現実は如何様にも変更可能である」という者としての立場で、現実を捉えるようになるからです。これは主人公としてストーリーに密着しているときには起こり得ない出来事です。
気が付けば、あなたは以前とは全く別の映画の中にいます。いつの間にか映写室のフィルムが掛け変わってしまったようです。
しかし本当は、フィルムを掛け替えたのはあなた自身です。それが出来る立場であることを思い出した「あなた」なら、それは何の造作もない、極めて容易なことなのです。
最後にもう一つ、とても気が楽になるメッセージをお伝えしましょう。
あなたは苦労して望む現実を創造する必要は全くありません。
何故って?それらは既に現実として存在しているからです。あらゆる現実は可能性としてではなく、本当の物質的な現象として、全てあるのです。
あなたはその中からお望みのものを、観客の視点でもって単に選ぶだけでよいのです。
簡単でしょう?(笑)