10 月
29
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「人を見て態度を変えてはいけない」
先生から、学校で道徳の時間に言われるようなことです(笑)。
倫理観全開のようなこの言葉には、実はもう一つの深い意味があります。
「分け隔てをしてはいけない」
「誰にでも同じ態度で接しなくてはいけない」
普通に考えると、これは倫理観に基づいた「公平性」を主張しているようです。
なぜ公平性が必要とされるかというと、不公平が横行すると、そこに誤解、不平、不満の種を蒔くことになり、結果的に、憎しみや争いがもたらされるからです。
大げさに言うと、社会が混乱する原因となるからです。
つまり、この言葉が世界にもたらそうとしているのは「秩序」です。
皆がそうしていれば、間違いなくこの世はユートピアになります。
この言葉は、世界を理想郷にするための約束事なのです。
現実社会を見渡してみましょう。
果たして、この約束事は守られているでしょうか?
いや、現実社会を見渡すまでもありませんね。
自分自身について振り返ってみれば、答えは明らかです。
こんな約束事は、誰一人守っていません。
「だって当たり前じゃないか。誰もが自分だけ得をしようと思い、世間は裏切りと不公平のオンパレードだ。そんな世界で自分一人だけ、そんなお気楽な約束事を守っていられないよ!」
全くもって、ごもっともです。
自分がそうしようと思っても、相手から不当に扱われたり、自分より他の人が優先してえこひいきされたり、あらかじめそんな風に扱われていたのでは、とても自分から『誰にも分け隔てなく接しよう』なんて気持ちには、到底なれません。
「そんなことをしても自分が損をするだけだ」
こういう気持ちになって当然です。
…扱うテーマを間違えたでしょうか?(笑)
いえ、間違っていません。
「人を見て態度を変えてはいけない」
この言葉は正しいのです。
ただし、上述したような理由で、ではありません。
上に書いたことは、今後一切忘れてくださって結構です。
誰一人守れないような「約束事」という観点を、敢えて持ち続けても全く意味はありません。
認識しておくべきことは、この言葉の持つ、もう一方の側面です。
すなわち「意図した現実を現象化させる」という側面です。
通常、我々は相手によって態度を変えてしまいます。
相手が好意的であれば、こちらも好意的になります。
相手が敵意を持っていれば、こっちだってと敵意を持ちます。
笑顔で、
「おはよう」
このとき、相手も笑顔で「おはよう」と返してくれれば、
「この人は感じが良い。これからもこの態度で接することにしよう」
こんな風に思います。
でも、相手がブスッとして返事をしてくれなかった場合、
「なんだよ。こっちは愛想を振りまいているというのに。なんだか損した気分だ。偉そうにしやがって。こんな奴には、二度と挨拶なんてしてやるものか」
こうして、分け隔てをしてしまいます。
「誰にでも同じ態度で」という崇高な約束事は、もろくも崩れ去ります。
お気づきでしょうか?
あなたが最初に笑顔で「おはよう」と言ったとき、あなたは自分の意図でそれを表現していました。
ところが、相手のリアクションが期待したものと違った場合、あなたの意図は簡単にねじ曲げられてしまったのです。
「それは相手が悪いからだよ」
そう言いたくなるのは当然です。
しかし、あなたはその時、紛れもなく「相手のリアクション」によって、態度を変えてしまったわけです。
リアクションに対してリアクションをしてしまった、ということになります。
最初の意図は、どこに行ってしまったのでしょうか。
これは誰もが気づかずに、自然とやってしまっていることです。
相手によって態度を変えたことが問題なのではありません。
そうやって無意識に、意図を簡単に撤回してしまっていることが問題なのです。
結果、あなたは現実に対するリアクション装置に成り下がってしまいます。
意図を現実に左右され、あっさりと撤回してしまうことが習慣化しているのです。
我々は、知らず知らずのうちに、こういった訓練を自分に課してきました。
それが現実に適応することだと、すっかり信じ込んでしまっているのです。
「あの人は、小さいことを全く気にしないな。ちょっと鈍感なんじゃないのか?」
「彼はスケールが違う。俺たちと違って、遙か先の方を見ているよ」
「君は、よくあんなことを言われて気にならないな。俺だったら辞表を叩きつけているよ」
大人物とか大成功した人は、得てしてこういった特性を持っていると思いませんか?
人のリアクションに対して、いちいち細かく一喜一憂しない。
「アイツぁ、大物だよ!」
なんて揶揄されたりしますが、この特性は決して無視できない重要な要素です。
彼らは図太いのです。神経が図太いのではなく、意図そのものが図太いのです。
物理的に、本当に図太いんですよ。
まるで小動物のように、ちょっとしたことにビクビクして、意図の出し入れを頻繁に行っている人間からすれば、彼らはそんな風に見えて当然なのです。
あなたは彼らのように「図太い」でしょうか?
もしそうでないとしたら、現実に振り回されるのは当然なのです。
図らずも、自分自身をそのように調教してきたわけですから。
現実に対するリアクション装置としての習性が染みついてしまっていては、意図して望んだ現実を創っていくことなど、出来なくて当然なのです。
では、このやっかいな習性を、一体どうやって矯正していったらいいのでしょうか。
答えは簡単です。
「人を見て態度を変えない」
これだけのことです。
世界に秩序をもたらすためとか、不平の横行を未然に防ぐためとか、そんな理由からでは全くありません。
あなたが意図的に望んだ現実を創造するために、そうするのです。
誰かが、あなたにどんなリアクションを返してこようが、そんなことは関係ありません。
そんなことに一喜一憂して、意図を出したり引っ込めたりしている場合ではないのです。そもそも、そんなものは意図でも何でもありません。
今まではそれが自動化されていたかもしれませんが、その活動はあなたにとって何の利益ももたらしません。今すぐ捨て去るべきです。
難しそうですか?
では、まずは一つだけ、トレーニングとして始めてみてください。
自分にとって、実行しやすいものを一つ決めてください。
何でも良いのですが、例えば上で例として出てきた、
「笑顔でおはよう」
これを、誰に対しても同じようにやってみる。
…見ず知らずの人にまで、無理に行う必要はありませんよ(笑)。
例えばテーマを「会社の人には笑顔で挨拶する」と決めたら、仲の良い同僚や上司以外にも、同じようにやってみる。
仲の悪い人や、嫌いな人にも同じようにやってみる。
相手がどんなアリアクションを返してこようが、
「そんなことは、私にとって何の関係もない。私は今、意図を撤回しないというトレーニングの最中なのだ」
こんなモチベーションでやってみてください。
あなたにとってやりやすいものなら、テーマは何でも良いですよ。
逆に、
「誰に対しても、同じように挨拶しない」
でも構わないわけです。
でも、これは案外難しいかもしれませんね(笑)。
できるだけ簡単なテーマでやってみてください。
やってみると分かりますが、
「自分は普段からリアクションに過敏反応して、こんなにもアッサリと意図を引っ込めていたのか!」
これに気づいて愕然とすると思います。
でも、気づいただけでも大収穫です。
まずは、簡単なテストだと思って気楽に始めてみてください。
結構、病みつきになりますよ(笑)。
4 Pings to “態度”
6 Responses to “態度”
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1. ろむせん(過去形) Says:
10 月 29th, 2008 at 1:11 AM108さま
毎回、色々な「気づき」をありがとうございます
ストック不足のなか、これだけの内容恐れ入ります
私、ろむせんにも苦手な上司(気に入られず降格させられた)に
嫌がらせ(オレのカオ今日もわすれんなよ!って)のように卑屈に挨拶していました
・・・反省いたします -
2. サトシ Says:
10 月 29th, 2008 at 11:31 PMまさにうちの会社に誰にでも「笑顔でおはよう」をやっている人がいます。
(特に108さんのブログを見た訳ではないと思われますが…)
凄いな… と、ずっと思っていました。
私も明日から何か実践します (^^ゞ -
3. ラピ。 Says:
10 月 29th, 2008 at 11:44 PMはい!
私も あることを 意図し続けてます。
自分の想いを 創造し続けてます。ほんと 病みつきになっちゃいますよね!(笑)
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4. ラム Says:
10 月 30th, 2008 at 6:42 AMザ・チケット読ませていただきました。はじめは嫌なことがなくなり、今ではハッピーなことばかりです。今までできないって思っていたこともできるようになり、今の願望も簡単に実現するという結果になると思うと、幸せで本当にうれしくて、うれしくて、ワクワクして夜も眠れません(笑)できないかもしれないという不安にいつもつぶされそうになっていた私にとっては既にすべてがあるという真実を知り、涙が溢れてきました。今は、願望はいっぱいあるけど、いっぺんに叶うような話が舞い込んできました。きっとすぐ叶うと思います。常に安心感があり本当に幸せです。108さん本当に感謝しています。これからもブログ楽しく拝見させていただきます。
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5. ひとつ Says:
10 月 30th, 2008 at 10:18 PM「意図する」ということ、言葉では簡単に思えても、なかなかつかむことができませんでした。
この記事を読んで、ようやく、「ああ、そういうことか」と思えました。
当たり前に使っている簡単そうな言葉だけれど、
みんな本当に感覚としてわかっているのかな〜と思うような事について、記事で読めたら嬉しいです。 -
6. pknyan2 Says:
7 月 13th, 2009 at 8:54 AMこんにちは、チケットを購入後このブログを見させていただきました。今回の態度、そして前回2回にわたって書かれていた壁はまさにわたしがいま最も悩んでいる課題(しかも自分の悩みは他の人が共有していないだろうと感じていた課題)で、とても考えさせられました。
チケットに書かれていたことを習得して、自分にとって生きやすい世にしたいです。そして周りにもその影響を与えたい。。。108さんの考えに出会えてとても幸せです、本当にありがとうございます。
10 月 29th, 2008 at 5:24 AM
108さんのお言葉、毎回毎回身に染みます。
私は昨年から所属してる活動サークルに、嫌な先輩がいて、
どうにも受け付けないので、ずっと「壁」を作って接してました。
何してても目に付くので、「いなくなればいい」ともずっと思ってました。
ところが先月終わり、「壁」が崩れたのかその人に嫌悪や不快を感じなくなり、
つい先日、その人がサークルを近々辞めるつもりでいる事を知りました。
…特に人間関係の「意図」の作動は「壁」の撤去が一番なのでしょうかね~(´・ω・`)
10 月 29th, 2008 at 3:42 PM
こんにちは。はじめまして。
最近になり、108さんの存在を知り、かつブログのコメントの返信には期待しないで・・・いう事を理解しつつも、書かせて頂きました。
ご迷惑とわかりつつも、一言だけでもアドバイスがあればと思って書き込みを致します。
昨年あたりから、精神的にダメージを受ける事がおおくなり、言い方は悪いかも知れませんが、精神的な部分の柱が欲しかったので「ザ・シークレット」や「引き寄せの法則 エイブラハム~(3冊)」、ザ・シークレットに出演したジョービタリー博士の「ザ・キー」、ウィリアム・アトキンソンの「引き寄せの法則 奥義編」、ウォレス・ワトルズの「60分聞くだけの成功論(富)」そして108さんの「ザ・チケット」などを読んできました。
個人的には、最も入りやすい導入編の「ザ・シークレット」があり、エイブラハム関連書籍を読破し、実行→成功のパターンが最高だとは思うのですが、きっと大半の方が上手く行かないことで挫折しているのが現状だと思います。
ザ・シークレット及びエイブラハム関連書籍に関しては「行動」及び「努力」というものに対しての指針というものがあまりなく、エイブラハム関連書籍に関しては「川の流れに身を任せておけばいい」というような表現となっています。
(真意は違うのかもしれませんが、どうしてもそう捉えてしまいます)
しかし、なかなか思い通りに行かない。なぜか・・・という部分で自分なりに分析すると、「疑念があるからか?」「想いが現実的にならないのか?」などと考えたりし始めます。当然、実現しないことから、他の方法を検索していくと、他の書籍などに目が行き、「ザ・キー」あたりだと、「行動しなくていいと言ってはいない。宇宙の真理に任せて、直感を感じたら行動しろ」という表現になり、ウィリアム・アトキンソンあたりになると「念を鍛えよ」というような表現になります。
どれもこれも「成功論」という意味では間違ってはいないと思いますが、どれもこれも何かが欠けている気もしますし、どれも正しいという気がしてきて、現在は混乱しております。
(当然、A地点(現在)からB地点(願望)へ行くときに、方法はひとつでない事は理解出来ますので、どれも正しいのだとは思います)
そして、ふと普段見ない「2ch」を見ていたら、108さんのコメントを見て「ザ・チケット」の存在を知り読ませて頂いたのですが、どちらかと言えば「ザ・シークレット」や「エイブラハム」の感覚に近いのでは?と感じております。(どちらが正しい、間違っているという意味ではなく)
108さんは、かなりの期間ご自身で努力されたと書かれておりましたので、もしかしたら私と同じような状況に陥ったことがあるかもしれないと思ってお聞きしたいのですが、苦労や努力(これは、楽しい努力を除きます)をする事は時には必要だとお思いになりますか?
書籍を拝見する限り、そのような事は書かれていないのですが、敢えて書かないという選択肢もあるのではないか?と思ったのが一因です。
「努力」や「根性」という言葉に対し、抵抗感を感じる人は少なくありません。
その抵抗感を持たせると「どうせダメだ」という事であきらめてしまう。
だから、敢えて書かないで「目標に対しての意識だけを集中させた方が抵抗感を感じる人には効果的」という判断もあり、「簡単なロジックだけを記載している」のかな?という考えもあります。(実際にやってみると、文章では簡単に書けても、実践するとなかなか上手く行かないことも多々あるのですが)
根が単純なのか、感化されやすいのか、どれを読んでも納得してしまう自分がいます。
ただ、逆に読めば読むほど迷路に迷い込んでしまっています。
108さんは、そのような時期がありましたでしょうか?
それとも、確固たる信念を持ち続ければ、例えばウィリアム・アトキンソンがいうような「念を鍛える」ような努力などは必要はない。と思われますか?(念だけでなく、一般的な努力という意味で結構です)
もし、アドバイスを頂けたら幸いです。
よろしくおねがいします。
清水
10 月 29th, 2008 at 8:29 PM
まさに今日起きた問題に、ピッタリの解決記事でした!
なんで○○なんだろうと、疑問を問いかけていたら、こういう形で問題解決しました。
これが引き寄せですね。
108さんや2ちゃんねるの皆様の回答を見て、考えが180度変わり、今は毎日が幸せと思ってるから幸せです。
というか小さなことが気にならなくなり(目に入らなくなり)ました。
今はスリムな体を試行錯誤しつつ引き寄せ中です。
痩せなくてもいいや、と願望が変わるかもしれませんが・・・(笑)
ブログ楽しみにしています。
10 月 30th, 2008 at 11:35 AM
108さん、電子書籍でも2ちゃんねるでも、ブログでもお世話になっています。2ちゃんねるでは書き込みかたがよくわからないのでいろんな方の質問を参考にさせていただきました。
主人は会社を経営していますがこの5、6年、各方面から借金をし、私の実家からも数百万借り、それでもとうとう今月にも自己破産するしかないところまできてしまいました。私なりに観念を変えたりメソッドを使ったりしていましたが、現実を動かすことはできませんでした。まだどうにかなると思う気持ちともうだめだと思う気持ちが交錯して今日に至ってしまいました。
昨日のことですが、いきなり自分の5年前の気持ちが(5年前まで私は公務員でしたが健康上の理由で退職しました)蘇ってきました。わたしはそのとき「職を失った私は無価値で主人の会社は不安定だ。私の人生は先細りだ」という観念を持っていたことに突然気づきました。いままでもう忘れようとしていた感情でした。そんな気持ちがまだ残っていたことに驚きながらも、その気持ちを味わい尽くしてからそのときの私をしっかり抱きしめました。涙がとめどもなく溢れました。 そして「願望は簡単に実現できる。私には嬉しい形で大金が手に入る」と改めて意図しました。
これは、昨日のことです。でも今日また新たに不安が現実化するような出来事がありました。普段ならもうやけになってしまうでしょう。すっぱり人生をあきらめたほうが108さん的にはむしろいいのかもしれませんが、これはできそうにありません。ブログの記事「態度」を読ませていただきました。今日の「新たに不安が現実化するような出来事」に対して、昨日改めて自分が意図した態度をまた変えてしまうところでした。私にとっては今の最大の危機が最大のチャンスですよね。108さん、ほんとうにありがとう。