壁は、自分と対象とを隔てます。
対象を自分のゾーンに侵入させないための、バリアみたいなものです。
それは精神的な面にも、肉体的・物質的な面にも同様に作用します。
あなたの安全を維持するため、このバリアは危険をシャットアウトします。
一見当然のように見えるこの活動には、逆に大きな問題点があります。
あなたは壁を作ることで自分自身を分割し、細分化して縮小していっているのです。
あなたにとって「現実」と見える外界は、実はあなた自身の内部からの投影です。
外界と見えるものは、あなた自身の一部なのです。
それがあなたにとって、好ましいものであっても、そうでないものであってもです。
それら全てをひっくるめて「あなた自身」なのです。
ところが、あなたはこれらに対して、
「これは自分にとって好ましいものだ。受け入れよう」
「これは好ましくない。壁を作り、自分から分け隔てよう」
このように取捨選択する度に、あなたは自分自身の一部を切り離しているのです。
あなたの目の前に、ある現実が提示された。
このとき、この現実はまだ、どのような属性も持っていません。
唯一「あなたの内部からの投影である」という属性を除いて。
ところが、これに対して、
「好都合だ」
「不都合だ」
このような判定をした途端、その現実は属性を持ち始めます。
あなた自身が選択したことによってです。
そして「不都合だ」と判定したことについては、あなたはそれを自分自身のものだとして「受け入れること」を放棄してしまいます。
文字通り、自らの一部を切り離してしまったわけです。
あなたは「受け取り拒否」しました。
しかし拒否したからといって、この「あなたの一部」は無くなったりしません。
言ってみれば「宅配便が届かなかった」というだけのことです。
配達できなかった荷物は、集配所に戻されます。
この集配所も、もちろんあなたの内部にあります。
そして、届かなかったため、再度配達されることになるのです。
あなたがある現実を、壁を作ることで受け入れなかったとします。
するとその現実は、形を変えて、再度あなたの目の前に現れてきます。
今度はその現実に「少しだけ」受け入れられる部分があるかもしれません。
しかし、他の部分については、やはり受け入れられません。
あなたは、またしても壁を作ることになります。
この活動は、永遠に止むことがありません。
そしてその都度、あなたは自分自身を細分化し続けているのです。
気がつけば、目の前には無数の壁があり、あなたを取り囲んでいます。
あなたは圧倒され、身動きが取れなくなっています。
しかしその壁は、あなた自身がせっせとこしらえてきたものに他ならないのです。
あなたはこうやって、自分自身をどんどん狭いスペースに追い詰めてしまっているのです。
この問題を、どうやって乗り越えたらいいのでしょうか。
答えは単純明快、「壁を作らないこと」です。
どんな現実が目の前に現れたとしても、それに対して壁を作らない。
自分の内部からの投影として、受け入れるのです。
それが、あなたにとって好ましいものであろうが、そうでなかろうが。
「これは嫌だ」と感じたら、その感情をも拒否しないで、充分に観察してみる。
その対象も「自分自身の一部である」という認識を持ちながら、愛を持って観察してみます。
「嫌だ」という感情を充分に感じきることで、その投影が現れた目的は達成されます。
荷物は届いたわけです。
あなたが壁を作ってきた対象は、単にその荷物を届けてくれる「配達人」に過ぎなかったのです。
今まで我々がしてきたことは、せっかく荷物を届けに来てくれた配達の人に対して、
「そんなものいらない。余計なことをしないでくれ」
と、配達人そのものを拒否していたようなことだった、というわけです。
とんだ見当違いでした。
どんな荷物であれ、その配達を依頼したのは「あなた自身」です。
それなのに、それをわざわざ届けてくれた対象に、感謝するどころか、否定して拒否するような態度を持ち続けていました。
でも、その勘違いは解消されました。
あなたは荷物を受け取り、配達人に「ありがとう」といいます。
荷物が届いたので、配達人の役目は終わりました。
彼がその荷物を持って、再びあなたの前に現れることはないでしょう。
荷物を受け取ってしまったので、逆にそんなことは不可能です。
あなたは荷物を部屋に持ち帰り、中身を確認します。
これで、一つのプロセスがめでたく完了しました。
こうすることによって、全ての対象における属性はニュートラルに保たれます。
あなたは、それに不都合な属性を与える機会から解放されます。
つまり、壁を作る必要がなくなったわけです。
もはや、対象をあなたから切り離す必要はなくなります。
こうして受け入れることで、それは「あなた自身」と統合されます。
同時に、同じ属性の無数の壁が消失し、分け隔てていたものとあなたとが再統合されます。
息苦しかったあなたの周りに、徐々にスペースが出来ていくのです。
こうしているとき、あなたの内部で一体何が起きているのでしょう。
あなたは愛を増幅しているのです。
受け容れることによって「否定」という属性を取り除いているのです。
つまりそれは、あなたが自分自身に幸せを許可している行為なのです。
ここで、ひとつ疑問が生まれます。
「壁を作らず、全ての状況を受け入れるということは、現実的な危険を受け入れることになるんじゃないのか?そんなことをしていたら、命がいくつあっても足りないよ!」
この疑問はごもっともです。
しかし「壁を作らない」ということは、何も「生命体としての安全を放棄しろ」ということではありません。
目の前に現れた人々に「片っ端から、抱きついてキスしろ」と言っているのではありません。
そんなことをしても「危ない奴だ」と思われるだけです(笑)。
また、猛スピードで突っ込んでくる車を受け入れ、そのまま轢かれろと言っているのでもありません。
当然ですが、そんな状況からは身を守るのが賢明です。
そういった「生命を維持するための、自動的で本能的な活動」を停止しろ、ということではないのです。
必要なのは「壁を作らない」ということだけです。
向こうから怖い人が歩いてきたら、その「怖い」という感情を充分に感じて観察してください。
しかし、その人も「自分自身の投影である」という認識に基づき、愛を持って受け入れてみてください。
あなたは普段そうしているように、普通に彼の横を通り過ぎるでしょう。
しかし、壁は作らないで済みました。
「自己の細分化のプロセス」は行われなかったわけです。
危ない運転をする車に、危うく轢かれそうになったら、
「危なかった、怖かった」
あるいは
「助かって良かった」
という感情を充分に感じ、観察してください。
そして、
「あの運転手は許せない」
「いつか復讐してやる」
と思ったら、その時の感情自体も充分に感じ、観察してみるのです。
しかし同時に
「あの車も運転手も、自分自身なのだ」
ということを思い出してください。
思い出したら、愛を持って受け入れてください。
そうすれば、自己を細分化しなくてすみます。
壁を作るということは、自らに制限を作るということです。
「ここからここまでが私です」
「それは、私から分離します」
こんな風にです。
その自ら設けた制限が、あなたの自我、つまり「エゴ」を形成していくのです。
このプロセスを中止し、目の前の世界を、あなたと再統合していってください。
そうすれば、あなたにとってのこの世界は、本来の属性を取り戻すことになります。
それは「愛」という属性です。
赤ちゃんの綺麗で純真なまなざしを、思い浮かべてください。
あのまなざしは、自我や分割という概念のない、愛に満ちた本来のまなざしなのです。
あなたが再びそのまなざしを持つようになれば、世界もあなたに愛を返してくれるようになります。
それはあなたが、世界に「愛」という属性を与えているからなのです。
どうでしょう。
「ひとつやってみようか」という気が起きてきたでしょうか?
「でも、大変だぞ。これまでに作ってきた無数の壁を、一つ一つ消去していくなんて。一生かかっても、果たして終わるかどうか…」
こんな風に心配しなくても大丈夫です。
あなたが、ある機会に壁を作らなければ、それと似たような壁は連鎖的に消えていきます。
あなたが「もう壁は作らないぞ」と決心して、機会ごとにそうしていると、その他の壁も次々と消えていきます。
無数にある壁は、まるでドミノ倒しのように、一気に崩れて消えていくのです。
壁がたくさんあればあるほど、壮大なドミノ倒しが起こります。
これは、爽快ですよ。
さて、最後にひとつだけ素敵なことをお伝えしましょう。
このドミノ倒しは、決してあなたの内部でだけ、起きていることではありません。
あなたがドミノ倒しを始めると、そのドミノは、他のあらゆる人たちのドミノも倒し始めるのです。
なぜなら、あなたと世界とは、実際には不可分だからです。
信じられませんか?
では、試しにドミノをひとつだけ、倒してみましょう。
全ては、この最初の「たったひとつのドミノ」から始まるのです。
written by 108