1 月 04

明けましておめでとうございます!
本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、2009年は皆さんにとってどんな一年だったでしょうか?

…えっ?まだ早すぎる?
2008年の間違いじゃないのかって?
いえ、間違いではありません。

「一年の計は元旦にあり(もう四日ですが)などと言いますが、これは本当です。
ただし、この「計」というのは「計画」のことではありません。
一年の総計という意味です。

「2009年なんて、つい何日か前に始まったばかりなのに、そんなの無理だよ」

おやおや、あなたはこの一年間を未だ「現象のリアクション装置」として過ごそうとしているのですか?

あなたは今年一年をどんな風に過ごしたいですか?
一年が終わったとき、どんな印象を持って2009年を振り返りたいですか?
それを今やったらいいのです。大晦日まで待つ必要はありません。

何か成し遂げたい計画があるのなら、

「今年はあの計画をトントン拍子で成功させることが出来た。本当に充実した一年だった」

何らかのピンチに見舞われているのなら、

「年始めはあんなに不安だったのに、あれよあれよという間に好転して、今はこんなにも満たされている。なんとも幸せな一年だった」

というように。
今年一年の大晦日の気分を、年始の今だからこそ先に味わってみてください。
この時、間違っても現状からの予測に基づいてその気分を決定しないように。
現状とは無関係に、あなたが大晦日に感じたい感情を、ただ単純に選択してください。
そしたら、今だけ望む大晦日にタイムスリップして、その感情を先取りしてみてください。
声に出してみたり、ノートに書いたりしてみるのも良いですよ。
ポイントは、望んでいるその時の感情をありありと味わうことです。

充分にその感情を味わったら、この時間に戻ってきてください。
あとは流れに身を任せて、精一杯楽しく過ごしていきましょう。
そして一年が過ぎ、大晦日が来たとき…
このページを見返したり、ノートに書いた文章を読み返したりしてみてください。
きっと驚かれるはずです。

あなたが前もって認定したことと、これから経験することの間には、時間的な前後関係は実はありません。
逆にしても成り立つのだということがお分かりになるはずです。
これが「あなたがそうなりたいのなら、あらかじめその状態になっていなくてはいけない」ということの意味です。

108式「一年の計は元旦にあり」、いかがでしょうか?
是非お試しください。

written by 108

12 月 25

世界金融危機が、深刻な事態を招いています。
日本でも派遣社員が契約を打ち切られたり、様々な方面に影響が出てきています。
このコラムを読んでいる方の中にも、今回の金融危機の煽りを食っている人が、少なからずいらっしゃるでしょう。

でも、こんな時こそ勇気を持って断言してみてください。

「完璧だ」と。

きっと不思議なことが起こりますよ。

金融危機という状況が、あなたの現実を作っているのではありません。
そのニュースについてあなたが感じたことが、あなたが自分の現実として体験するものになるのです。

客観的状況と思われるものに、あなたの現実を創造する力はありません。
あなたの現実を創造しているのは、あなたが何を感じているかということだけです。
ここのところをシッカリと理解しておいてください。

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さて、前置きが長くなりました。
今日の話は「減点法」です。

私達は、いつも減点法で自分を裁いています。

絶えず、裁き続けています。

例えば、こんな風に。

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朝、目覚まし時計が鳴ります。
あなたは必死の思いで目を覚まします。

「もうこんな時間か…。昨日遅くまで飲み過ぎてしまった。頭が痛い。今日が日曜日だったら良かったのに。仕方ない、起きるとしよう…」

・充分な睡眠が取れていない…マイナス50点
・不摂生をしてしまった…マイナス30点
・頭痛がする…マイナス100点
・今日は日曜日ではない…マイナス30点
・起きなくてはいけない…マイナス50点

あなたは朝食を取り、身支度をして玄関のドアを開けます。
あいにくの天気でした。外は雨です。

「なんだよ〜、雨じゃないか」

・天気が悪い…30点

あなたは傘を差して、駅に向かいます。

・傘を差して歩くのが面倒くさい…マイナス10点

駅に到着したあなたは、ラッシュアワーの電車に乗り込みます。

「ウワー、ぎゅうぎゅう詰めの上に、塗れた傘だらけだ。スーツが汚れなきゃ良いが」

・ぎゅうぎゅう詰め…マイナス20点
・塗れた傘だらけ…マイナス50点
・スーツが汚れる恐れがある…マイナス70点

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…本当はもっと続けようと思っていたんですが、もう止めておきます。
全然楽しくありません(笑)。

私達はこんな風に、絶えず状況と思われるものを採点しています。
しかも加点法ではなく、ほとんどが減点法です。
一体どうして、こんな無意味な採点を絶えず続けているのでしょう?
いつかまとめて誰かに提出するつもりなのでしょうか?(笑)

この減点法による採点、最も恐ろしいのは自分に向けられた採点です。

・不摂生をしてしまった
・スピーチで噛んでしまった
・お年寄りに席を譲るタイミングを失ってしまった
・タイムサービスの商品を買い損ねてしまった
・電車から降りるとき、左足から踏み出してしまった…etc.

ありとあらゆる場面で、あなたは自分を減点し続けています。
何故でしょう?

「常に自分の行動を採点しなさい」

などと、家や学校では教わらなかったはずです。

「ちょっと待て。似たようなことは言われたぞ。『真面目に生きなさい』とか『人の役に立たなくてはいけない』とか『常に自分の行動を顧みよう』とかの類だ」

確かに言われたかもしれません。
でも「自分を常に減点法で採点しなさい」とは言われてはいないはずです。
にも関わらず、せっせせっせと絶えず自分を採点しているのは何故なのですか?

あなたがこれまでに作成してきた膨大なレポート。
このレポートを誰かに提出したことがありますか?
ないですね。このレポートの提出先はありません。
では、一体このレポートはどこに行ってしまうのでしょうか?

(つづく)

written by 108

11 月 09

体験しているのは誰だ

あなたは劇場で映画を鑑賞しています。
主人公の身に降りかかるドラマを、ハラハラしながら見守っています。
そして、物語もいよいよクライマックス。張り巡らされた伏線がつながっていき、主人公は徐々に追い詰められていきます。そして思いも寄らなかった人物が、黒幕として主人公の前に姿を現す…

「…オシッコがしたい!」

あなたは少しばかりジュースを飲み過ぎました。ここまで何とか我慢してきましたが、もう限界のようです。

「ちょっとスミマセン」

あなたはイソイソと席を立ち、トイレに駆け込みます。そして…

…おめでとうございます。心から安心できる瞬間が訪れました。

さて、用を済ませ手を洗っていると、目の前の鏡に自分の顔が映っています。
ここであなたはふと気づきます。

「私は映画の中の主人公などではなかった。ただの観客だ」

さっきまで眺めていた劇場の大スクリーンと、目の前の小さな鏡とが重なっていきます。

この、鏡の中に映っている人物は、誰だ。
あの大きなスクリーンに映っていた人物は、誰だ。
そしてもっと巨大な、現実というスクリーンに映っているのは、いったい誰なんだ。

もう映画の続きなど、どうでも良くなりました。
もっと重大なことに気がつき始めたからです。

****************************

あなたは確かにこの現実の主人公かもしれません。
しかし、実際に体験しているのはあなたではありません。
体験しているのは、あなたの向こう側にいる「観客」です。
そしてその観客こそが、本当のあなたなのです。

我々は映画を観るとき、作品が自分の趣味・嗜好と合致していて、あらゆる面で良くできていたとき、その作品世界に心から魅了されます。我を忘れ、夢中になってのめり込むのです。
そんな時、あなたはもはや主人公です。観客であるということを忘れて、主人公と一体化しています。主人公に起きていることはあなたに起きていることです。実際に主人公として、その映画の出来事を体験しているのです。

これと同じことが、現実でも起きています。

あなたがオギャーと産声を上げて、この世界に現れたときから映画がスタートしました。
最初はなんだかよく分かりません。あなたはこの世界を把握しようと一生懸命です。
そのうち、ストーリーが段々と理解できてきました。自分がどのような役どころで、周りにいる配役がそれぞれどんなキャラクターなのか。舞台設定はどうなのか。
あなたは自分の役回りをどんどん進んで勤めるようになります。それらしく振る舞うことがますます板についてきます。

あなたはすっかりこの現実世界の主人公になりきってしまいました。
そして、本当は観客であることを忘れてしまったのです。

私は誰だ

映画はモンタージュという技法を用いて、様々なショットをつなぎ合わせ、一つのストーリーを構築します。
しかし実際には無数の映像を細かくつないでいるだけで、各シーンだけ単独で取り出してみても、そこには何のストーリーも存在しません。
それを時間軸に沿ってつないで観ていく中で、我々が連想してストーリーを作り出しているに過ぎないのです。
つまり、上映されている映像自体には何の意味もなく、各シーンを頭の中でつないでいき、出来上がったストーリーから感じたものを「これこれこういう映画だ」と思っているに過ぎないというわけです。
映画という形態は、あなたの内部でだけ存在しうるものなのです。
連想して感じた様々な内部的体験が映画の本質なのです。

現実も同じです。
我々の目に映るあらゆるものは、それ自体まだ何の属性も持っていません。
あなたはそれを様々な形で関連させ、恣意的に解釈します。この時点でも属性はありません。
あなたは次に「それは楽しい」「それは嫌だ」などと感じます。
あなたにとってのある現実に対して、何らかの感情を感じた。この時、現実は初めて属性を帯びてきます。

これが体験というものです。

あなたが目の前のものに対して思考を働かせ、解釈を試みます。その結果それはあなたにとってある種の属性を帯び、それに対してあなたは何らかの感情を覚えます。
これが「体験する」というプロセスです。

何かを見たから体験したのではありません。その時何かを感じたことが体験なのです。
つまり体験とは、完全にあなたの内部的なものなのです。

ということは、どこかに行き、何かを行い、何かを書き、何かを聞き、何かを喋っているあなたは主人公かもしれませんが、それはあなたではありません。
その時何かを感じているあなた、つまり実際に経験しているあなたこそが本当のあなたなのです。

チケットは無数にある

感じている者こそ自分の本当の「主体」だと気づくと、あなたは現実に急きたてられる主人公の役割から解放されます。
現実は拷問ではなくなります。
あなたは投影されている映像の一部ではなく、それを鑑賞している観客の立場に立つことが出来ます。
そして、元々そうだったのです。

逃れられない唯一のストーリーの呪縛から解き放たれます。
現実は、あなたを不自由に閉じ込めておく檻などではなかったことに気づきます。
今までのあなたは、その映画にのめり込み、主人公と一体化していたため、その視点を持つことが出来ずにいました。
しかし、ちょっと用を足しにいった瞬間に、本当の自分に気づいてしまったというわけです。

「私はどうして、見たくもない映画に必死にのめり込んでいたんだろう」

もうこの作品の続きを見る必要はなさそうです。
あなたは映画館を後にします。そして、本当に見たい映画はどんなものか、想いをめぐらせます。

頭の中に、面白そうな映画のストーリーが浮かんできました。あなたは楽しくなって、思わずウフフと笑いがこみ上げてきます。

目を上げると、正にそんな面白そうな映画の看板がそこにありました。

「これだ。これにしよう」

あなたはウキウキしながらその劇場に入っていきました。
なんとなくですが、面白そうな映画であることは直観で分かりました。
それに気に入らなければ、また別の映画を選べば良いだけのことです。
映画など、星の数ほどあるのですから。

次の映画に移る

この現実を、逃れられない唯一の現実だと信じ込んでいると、観客の視点を持つことは不可能です。
その時あなたは、主人公としてそのストーリーと必要以上に密着してしまい、強力にその現実を固定化してしまいます。結果、似たような現象化が延々と繰り返されることになり、変更はますます困難になります。

はっと気が付いて、観客であることを思い出したら、何が起きるのか。

何も起きません。ただ、本来の視点を取り戻すことが出来るようになります。
今までは主人公として現実に感情移入しすぎていたため、極めて近視眼的な視点しか持ち得ませんでした。これはエゴの視点です。
もっとよく見ようと、読んでいる本に極限まで目を近づけても、ますます読みづらくなるだけです。そこで何とかしようと取り組んでも、暗闇で闇雲に動き回っているようなものです。そんなことをしても上手くいくはずがありません。

そこから一歩引いて、主人公である自分を観察する観客の視点を持ってみる。
それは本来のあなたの視点であり、別の領域から正確な観察を行っているということです。

つまり完全に安全な領域から、全てを見通せているということです。

「志村、うしろうしろ!」

主人公に適切な指示を与えることも可能です(笑)。
大局的な視野でもって、全てを見通すことが出来るようになるのです。
思い出してください。別の領域は可能の領域です。そこに不可能という概念は存在しません。
つまり、あなたがその地点から現実を眺めているとき、その現実は如何様にも変更可能だということです。
あなたがその視点を持つだけで、現実は自動的に望むように変化していきます。なぜなら「現実は如何様にも変更可能である」という者としての立場で、現実を捉えるようになるからです。これは主人公としてストーリーに密着しているときには起こり得ない出来事です。

気が付けば、あなたは以前とは全く別の映画の中にいます。いつの間にか映写室のフィルムが掛け変わってしまったようです。
しかし本当は、フィルムを掛け替えたのはあなた自身です。それが出来る立場であることを思い出した「あなた」なら、それは何の造作もない、極めて容易なことなのです。

最後にもう一つ、とても気が楽になるメッセージをお伝えしましょう。
あなたは苦労して望む現実を創造する必要は全くありません。
何故って?それらは既に現実として存在しているからです。あらゆる現実は可能性としてではなく、本当の物質的な現象として、全てあるのです。

あなたはその中からお望みのものを、観客の視点でもって単に選ぶだけでよいのです。

簡単でしょう?(笑)

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written by 108

11 月 06

現実って、何?

ザ・チケットや、2ちゃんねるのLOAスレッドをお読みの方には、既にお馴染みの考え方かもしれません。

そう、現実とは「幻想」です。
あなたの内部から投影された立体映像のようなものです。

ところが幻想であるはずのこの現実に、我々は絶えず翻弄されています。
楽しい現実、嬉しい現実もあれば、辛い現実、悲しい現実もあります。
単なる幻想であるはずの現実に、我々は始終脅かされているのです。

これがテレビドラマの中での話であれば、たいした問題ではありません。
一時間程度、その世界に浸りきって充分にドラマを堪能すれば、それでオシマイです。
来週のこの時間を楽しみにしながら、我々はその世界を後にします。
そして、安心できる自分の本当の現実に戻ってくるのです。

しかし厄介なことに、テレビドラマではない「自分の本当の現実」においても様々なドラマが待ち受けています。
そしてそのドラマの主人公は、正真正銘の自分自身です。
これ以上の臨場感はありません。巨大なスクリーンと高度な音響設備を備えた映画館であっても、この「現実」という上映設備の迫力には遠く及びません。

この「現実」というドラマは、あなたが生まれてから現在に至るまで、ずっと休むことなく上映され続けています。
早送りも巻き戻しも出来ません。
「ちょっと休憩」と言って、中座することも許されません。
決して途切れることなく、我々はこのドラマの主人公を演じ続けています。

現実が我々にとって、好意的に解釈できるものであれば、それもいいでしょう。
ところが、現実とは往々にしてそうではありません。
不愉快なことが一杯起こります。耐え難いような出来事も、一生のうち一度や二度ではないでしょう。

「なぜ、これほど苦しい現実を味わう必要があるんだ。もうたくさんだ!」

こう言って鑑賞するのを中止し、劇場を後にすることはできません。それは死を意味するからです。
実際の映画であれば、それは自由です。
そうであれば、そもそも鑑賞前に作品を選ぶことが出来ます。
事前に「どのような映画であるか」内容をチェックして、自分の趣味・嗜好に合うものを観に行けばいいわけです。
観に行って気に入らなければ、鑑賞を途中で中止することも自由です。
別の作品はいくらでも上映されていて、もっと面白そうな映画はたくさんあります。
公開中のロードショー以外にも、ビデオレンタル店には過去の作品がいくらでも置いてあります。テレビでも毎週何本も放映されています。
あなたにとってお気に入りの一本に、必ず出会うことが出来るでしょう。

しかし、この「現実」はあなたにとって唯一のものです。
あなたが気に入ろうが気に入るまいが、容赦なくその「唯一のストーリー」を突きつけてきます。
それが「人ごと」ならともかく、主人公はあなたです。体験しているのは唯一の主人公であるあなたなのです。
あなたはジェットコースターの先端に縛り付けられ、次から次へとものすごい勢いで迫ってくるど迫力のシーンを目の前にして、恐怖にうろたえるばかりです。

これは拷問です。もはや罰以外の何物でもありません。
これが人生というものなら、全く楽しくなんてありません。一刻も早く終わらせたいと思って当然です。
私は先に「ドラマを見終わったら安心できる現実に帰ってくる」と書きましたが、実際にはまるであべこべです。むしろドラマを見ている時間の方が、人によっては辛い現実から解放されるオアシスのような役目を果たしているのかもしれません。

この「現実」というドラマのシナリオライターは、一体どこにいるのでしょう。
見つけて一発か二発…いや、ボコボコにぶん殴ってやらなくては気が済みません(笑)。

主人公という幻想

…さて、何となく展開が読めてきた気がしませんか?
あなたはおそらく、私が今からこんなことを書くんだろうと思っています。

「実は、この現実というドラマのシナリオライターはあなた自身です。全ての現実は、あなた自身が創造しているものに他ならないのです。だから、あなたが自分でシナリオを書き換えさえすれば、現実はあなたの望むように展開していくのです」

この方向に論旨を誘導していくのは簡単です。しかし、ザ・チケットでも2chのスレでも、この手の話は嫌というほどしてきました。もうお腹いっぱいだという方も多いと思います。

そこで今回は、ちょっと別の方向に展開を試みてみようと思います。

「現実は、あなたが創造しているものではない。この現実世界に生きる他者やあらゆる現象によって、あなたとは無関係に刻々と生み出されているものだ。
現実は、あなたの内面とは一切関係がない。あなたが何を考えているかということと、実際の現象化との間にはなんら関連性はないのだ。
あなたが現実に対して取り組んで成果を出せる部分は一切ない。なぜならあなたは創造主などではないからだ。あなたはただ次々と展開する現実に対して、楽しい、辛い、面白い、恐ろしい、などと感想を洩らすことだけで精一杯だ。
とすれば、あなたが現実に対して出来ることは何もない。あなたに出来ることは、それを充分に体験し、感じることだけである。あなたは観客に過ぎないのだ」

どうでしょうか。
「現実とは幻想である」「内部から投影された立体映像のようなものである」という最初の主張と、同じ地点に行き着いてしまいました。
正反対の立場を取ってみても、結論は同じなのです。

「自分はこの現実の主人公だ」

これは真実のように思えます。あなたは現実を「あなたの観点」でしか捉えることは出来ず、その意味であなたは自動的に主人公という立場を取らざるを得ません。
しかし上で述べた立場に立って考えると、これはおかしなことです。
あなたが主人公なら、常にドラマの中心にいて、現実の展開に大きな影響を与えていなくてはなりません。
しかし上記の前提通りだとすれば、現実とあなたは「無関係」であり、あなたの思考は現象化に影響を及ぼさないはずです。
これではとても主人公とは言えません。
しかし、あなたは現実を途方もない臨場感を持って感じ、喜び、悲しみ、まるで主人公のようにありありと体験しているように見えます。
では「あなた」の現実における立場とは一体何なのでしょうか。
(つづく)

written by 108

10 月 31

さて、【結末その3】の前に、彼のこれまでの人生を別の視点から振り返ってみましょう。

彼は確かに心優しい人間でした。
客観的に見れば、こういう人ほど幸せになっていなくてはならないはずです。
しかし、そうはなっていません。むしろ逆です。
なんで、こんなあべこべなことが現実社会でまかり通っているのでしょうか。
もし神がいるなら、なぜこの現実に介入してきて彼を救ってくれないのでしょうか。

当然です。
彼は全然優しくなんてありません。
むしろ人非道、人を人とも思っていない悪質な人間です。

「一体何を言ってるの?これほど優しい人間が極悪人なら、他の人たちはどうなるの?」

こんな風に疑問を持たれたあなた。
あなたには彼の極悪な側面が見えていないのです。

「何それ?上辺では優しいけど、影では多重人格の冷徹な殺人者だったとか?そんなのズルいよ。読んだ中にはそんな設定は描かれていないじゃないか!」

まあまあ、待ってください。そんな隠し設定は一切ありません。
あなたがここまで読んできた物語の中に、彼の極悪な側面はキッチリ描かれています。

ズバリ言いましょう。
彼はあるひとりの人間に、到底考えられないような惨い仕打ちをしてきました。

彼自身にです。

彼は「人の気持ちを大切に考える」と言いながら、一番大切に考えてあげなくてはいけない人物の気持ちを、ずっと踏みにじり続けてきたのです。
他の誰でもない、彼自身の気持ちをです。

彼は最優先すべき人間の心を、ずっとないがしろにしてきたのです。

昔話や童話の中に、よくある共通したステレオタイプの認識があります。

「苦労した人間は報われる」
「心優しい人には、必ず幸せが訪れる」

この言葉面はシンボリックに我々の心の中に刷り込まれ、それによる誤った認識が、いつしか信念となって深く根付いています。
そして今でも、この紋切り型の信念は堂々と世の中にまかり通っています。
情報番組やゴシップ誌、ニュースやドラマや教育番組、世間話から井戸端会議に至るまで、巷はこの信念を肯定するような論調で溢れかえっています。

「まったく、あの人は図々しいわねぇ。きっとロクな死に方はしないわ」
「どうしてこのように善良な方が、こんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか」
「いつかきっと、僕たちにも幸せが訪れるんだ。希望を捨ててはいけない」
「お天道様は、ちゃーんとお見通しだよ」
「そしてシンデレラは、王子様といつまでも幸せに暮らしました…」

相手の心を思いやることは、尊いことです。
それは真実です。
でも、だからといって「自分自身の心は踏みにじっても良い」などということは決してありません。
逆に、最優先で大切に考えてあげなくてはいけません。

「自分が嫌な思いをしても、相手が幸せならそれでいい」

これはステレオタイプの間違った信念に支えられた幻想です。
あなたはあなた自身の幸せを通してしか、相手にも周りにも、何一つ与えることは出来ません。
出来ると思っているのは、歪んだ認識が見せている錯覚に過ぎないのです。

自分の不幸によって、まるで取引のように他の人が幸せになる、などということは絶対にありません。
現実がたとえそのように見えていたとしても、それはあなたの信念が見せている幻想なのです。
そんな愚かなことで誰かが幸せになると思ったら大間違いです。

「じゃあ自分の欲望のままに、傍若無人に振る舞えばいいのか。そんなことをしたら、世の中はたちまち大混乱に陥ってしまうだろう」

ちょっと待ってください。そんなことは言っていません。
しなくてはいけないことは、

「自分の幸せを最優先に考える」

ということです。これは、

「自分さえ良ければ、他の人はどうなってもいい」

ということではありません。
周りの人に対して優しく接するということは、何ら間違いではありません。
ただし周りの人よりも誰よりも、自分自身を一番大事にし、優しく接してあげなくてはなりません。

「自らを一段低いところに起き、他の人を上位概念として優先する」

こういった姿勢は、

「私は、常に他人よりも満たされていない状態を欲している。それが私の望みだ」

と表明していることに等しいのです。

それによって、あなたが心から幸せを感じているのなら問題はありません。
例えば、限られた分しか食料がないような場合、たとえ自分の空腹が満たされないとしても、親は自分の子供に優先して食べ物を与えようとします。
これは親が本心から欲していることであって、正真正銘、それが親自身の幸せであるからです。
しかし彼の場合は違います。周りに喜びを与えるため、本当は不足感を感じながら、自分自身に我慢を強いています。そして「これは美徳である」というような、自分の本心と全く一致しない信念によって、自らは不足が当然だと思い込もうとしているに過ぎないのです。

あなたの幸せを犠牲にして、誰かを幸せにすることは出来ません。
なぜならその時、あなたはあなた自身を苦しめているからです。
苦しみは苦しみしか引き寄せません。
苦しみが幸せを引き寄せることなど、出来る道理がないのです。

では、具体的にどうすればいいのでしょうか。
この物語の「彼」は、一体どうしていればよかったのでしょうか?

ここで、彼が物心をついた時分にまで、時間を巻き戻します。


****************************


彼は公園にやってきました。
ブランコ遊びがしたかったのです。
ところが、ブランコには既に男の子が乗って遊んでいます。
彼は、ブランコ遊びを昨日からとても楽しみにしていました。
でも仕方ないや。あの男の子だって、ずっと楽しみにしていたかもしれないもんな。
彼は諦めて、その場を立ち去ろうとしました。

その時、

「自分の気持ちも、大事にしてあげなくてはいけないよ」

誰かの声がしました。
振り返りましたが、誰もいません。
気のせいだかなんだか分からない、不思議な経験でした。
でも彼にはこの言葉が、何かとても大切なことを伝えようとしている気がしたのです。

彼はブランコで遊んでいる男の子に近づいていきました。

「ねえ、代わって。僕もブランコで遊ばせて」
「うん、いいよ」

意外にも、男の子は気軽にOKしてくれました。
何か嫌な感じになるんじゃないかと思っていましたが、全然そんなことはなかったのです。
彼は喜んでブランコに飛び乗りました。

「ありがとう。後でまた、代わってあげるから」
「いいよ。僕、あっちの滑り台で遊ぶから」

男の子は笑いながら、滑り台の方に元気よく走っていきました。

彼は、楽しそうにブランコをこぎます。
ひとこぎ、ふたこぎ…
世界が彼を中心にグルグル回っているようで、心の底から嬉しくなってきました。

見ると、公園の人たちもなぜか笑顔です。

自分が幸せだと、周りも幸せなんだ。

これは、彼にとって大きな発見でした。
誰かが幸せになるには、誰かがそれを諦めなくてはいけない。
そして、それを諦めることが優しいということなんだ。
彼は最近、何となくそう思いかけていましたが、間違いであることが分かったのです。

「僕はただ単に、臆病なだけだったんだ」

この時の経験は、これからの彼の人生を素晴らしく彩る、とてつもなく大きな意味を持っていました。

でも、彼はまだ、その事に気づいていません。
心の底から楽しんで、ブランコをこぎ続けました。

大きく揺れる公園の景色の中に、他の子供たちやお母さんたちの姿が映ります。
気のせいかもしれませんが、それらが全て、輝いて見えるのです。
そしてそれは、決して気のせいではありませんでした。

「あの子、とっても楽しそうね」
「僕、ブランコ代わってあげてよかった」

その日の公園は、まるで何か言葉に出来ない暖かいものに、包まれているかのようでした。


****************************


…さて、お待たせしました。
それでは、いよいよ【結末その3】です。

…えっ?無粋なことをするなですって?

確かにそうですね。
では、上で書いたのを本当の結末として、採用することにしましょう。

本当は、ちゃんと別の結末があったんですが、まあいいでしょう。
あなたの意見に合わせることにします。
自分で言うのも何ですが、私は、実はとっても優しい人間なんですよ(笑)。

※私だって優しいぞ!という方、どうぞご協力ください。

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written by 108

10 月 31


「優しい人ほど損をする」

認めたくありませんが、これは真実です。

優しい人というのは、自分よりも他人を優先します。

優しい人は、あまり自己主張をしません。
それによって相手が傷つくことが、気の毒に思えて仕方がないからです。

「モヤモヤするけど、自分が我慢すれば、この人は傷つかないですむ」

いつも相手の意見に合わせて、自分の主張をグッと押し込めます。

優しい人は、激しい怒りの感情を覚えていても、それを表現することに戸惑いを感じます。
それによって相手が恐怖を感じることが、とても耐えられないのです。

「周りに怒りを表現することは、精神的な暴力のようなものだ。人をそんな目に遭わせてはいけない」

いつも怒りをグッと胸にしまい込んで、にこやかな笑顔で相手に接します。

優しい人は、苦しいときでも周りに助けを求めません。
それによって周りが迷惑することに耐えられないのです。

「苦しむのは自分一人で充分だ。周りを巻き込んではいけない」

いつも苦しみを一人で抱え、頑張って堪え忍びます。

こうして、優しい人は常に傷ついています。
そして、彼のことをフォローしてくれる人はいません。
周りの人たちは、彼ほど優しくはないからです。
彼がそれほどまでに傷つき、苦しみ、不満に満ちているなどとは、つゆほども思っていないのです。

「あの人は、なんだか人当たりが良いねえ」
「彼と一緒にいると、癒されるよ」
「まるで仏様のような人だ」

こんな風に、彼の評価は決して低いわけではありません。

でも、それ止まり。

単に「そういう人」というレッテルを貼ってくれているだけのことです。
多大な評価もご褒美も、祝福も感謝もありません。
彼がどれほど苦労して周りに気を配っているか、誰一人知らないからです。
周りが彼と同じくらい優しければ、事情は変わっていたでしょう。
でも、それを周囲の人たちに求めるのは酷というものです。


彼の人生も、もうそろそろ半ばを迎えました。
彼の日常は、相変わらずパッとしません。
昔に比べて裕福になったかといえば、そうでもありません。
どちらかといえば貧乏な方です。

未だに恋人もいません。
「いい人ね」と言われることはあっても「素敵な人ね」と言われることはありません。
華やかな恋愛とは無縁の日常が、淡々と流れていきます。

最近の彼は、どこか寂しげです。
なんだか、人生というものに疑問を覚えるようになってきました。

「おかしいな。誰に対しても優しく接してきたはずなのに、なぜ俺は幸せになっていないんだろう。
自分は善良に生きてきたつもりだ。別に信仰心があったわけじゃなく、元からこんな性質だった。でも、これは自分の長所だと信じてきた。
常に自分よりも他人を優先し、相手のことばかり考えて生きてきたつもりだ。
それなのに、どうして俺の人生はパッとしないんだろう。これが幸せと言えるのだろうか。どちらかといえば、不満の方が多いぞ。
そうだ。ずっとそうだった。俺は善良に生きてきたつもりなのに、ちっとも幸せを感じたことはなかった。幸せを感じてきたのは、いつも周りの方だった。それも、俺がいつも一歩、身を引いてあげていたからなのに!
冗談じゃないぞ!よく考えれば、冷徹で、図々しいヤツの方が成功し、豊かになり、美しい恋人を連れて歩き、俺なんかより何百倍も人生を謳歌しているじゃないか!それに比べてこの俺は…。
これまでの俺の人生は、一体何だったというのだ」



****************************


ここから、この物語の結末は三つに分かれます。
いわゆる「マルチ・エンディング」です。


【結末その1】

彼は、神を呪い、怒りに打ち震えます。
そして、自分を踏みつけにした社会に復讐を誓うのでした。
これまで自分と関わった人間をひとりひとり殺していこうか。
面倒だ。いっそ、人類全てを破滅に追い込んでやる。
この途方もない計画は、しかし彼に生き甲斐を与えました。
彼には、今まで感じたことのないようなエネルギーが、尽きることなく湧いてきているのです。
そのうち彼は、この計画を本当に実現してしまうかもしれません。

優しい人を怒らせると、とても恐ろしいのです。


【結末その2】

彼は、この絶望感に折り合いを付けることにしました。

「…仕方がない。自分で選んできた道じゃないか。
それに、周りに優しいのは、俺の持って生まれた良いところだ。別に誰に評価されなくたって、神様はきっと見ていらっしゃるに違いない。
俺が幸せになるのは、きっとあの世にいってからだな。それまではせいぜい、ささやかな幸せを見つけて、生きていくとしよう…」

さらに年月がたち、彼は年老いていきました。

そして、いよいよその時が来たのです。
彼は孤独に、寂しそうな表情をたたえて天に召されていきました。

果たして、彼はあの世で幸せになったのでしょうか。



(つづく)

written by 108

10 月 29

「人を見て態度を変えてはいけない」

先生から、学校で道徳の時間に言われるようなことです(笑)。
倫理観全開のようなこの言葉には、実はもう一つの深い意味があります。

「分け隔てをしてはいけない」
「誰にでも同じ態度で接しなくてはいけない」

普通に考えると、これは倫理観に基づいた「公平性」を主張しているようです。
なぜ公平性が必要とされるかというと、不公平が横行すると、そこに誤解、不平、不満の種を蒔くことになり、結果的に、憎しみや争いがもたらされるからです。
大げさに言うと、社会が混乱する原因となるからです。

つまり、この言葉が世界にもたらそうとしているのは「秩序」です。
皆がそうしていれば、間違いなくこの世はユートピアになります。
この言葉は、世界を理想郷にするための約束事なのです。

現実社会を見渡してみましょう。
果たして、この約束事は守られているでしょうか?
いや、現実社会を見渡すまでもありませんね。
自分自身について振り返ってみれば、答えは明らかです。
こんな約束事は、誰一人守っていません。

「だって当たり前じゃないか。誰もが自分だけ得をしようと思い、世間は裏切りと不公平のオンパレードだ。そんな世界で自分一人だけ、そんなお気楽な約束事を守っていられないよ!」

全くもって、ごもっともです。

自分がそうしようと思っても、相手から不当に扱われたり、自分より他の人が優先してえこひいきされたり、あらかじめそんな風に扱われていたのでは、とても自分から『誰にも分け隔てなく接しよう』なんて気持ちには、到底なれません。

「そんなことをしても自分が損をするだけだ」

こういう気持ちになって当然です。

…扱うテーマを間違えたでしょうか?(笑)

いえ、間違っていません。

「人を見て態度を変えてはいけない」

この言葉は正しいのです。
ただし、上述したような理由で、ではありません。

上に書いたことは、今後一切忘れてくださって結構です。
誰一人守れないような「約束事」という観点を、敢えて持ち続けても全く意味はありません。
認識しておくべきことは、この言葉の持つ、もう一方の側面です。

すなわち「意図した現実を現象化させる」という側面です。

通常、我々は相手によって態度を変えてしまいます。
相手が好意的であれば、こちらも好意的になります。
相手が敵意を持っていれば、こっちだってと敵意を持ちます。

笑顔で、

「おはよう」

このとき、相手も笑顔で「おはよう」と返してくれれば、

「この人は感じが良い。これからもこの態度で接することにしよう」

こんな風に思います。

でも、相手がブスッとして返事をしてくれなかった場合、

「なんだよ。こっちは愛想を振りまいているというのに。なんだか損した気分だ。偉そうにしやがって。こんな奴には、二度と挨拶なんてしてやるものか」

こうして、分け隔てをしてしまいます。
「誰にでも同じ態度で」という崇高な約束事は、もろくも崩れ去ります。

お気づきでしょうか?

あなたが最初に笑顔で「おはよう」と言ったとき、あなたは自分の意図でそれを表現していました。
ところが、相手のリアクションが期待したものと違った場合、あなたの意図は簡単にねじ曲げられてしまったのです。

「それは相手が悪いからだよ」

そう言いたくなるのは当然です。
しかし、あなたはその時、紛れもなく「相手のリアクション」によって、態度を変えてしまったわけです。
リアクションに対してリアクションをしてしまった、ということになります。
最初の意図は、どこに行ってしまったのでしょうか。

これは誰もが気づかずに、自然とやってしまっていることです。

相手によって態度を変えたことが問題なのではありません。
そうやって無意識に、意図を簡単に撤回してしまっていることが問題なのです。

結果、あなたは現実に対するリアクション装置に成り下がってしまいます。
意図を現実に左右され、あっさりと撤回してしまうことが習慣化しているのです。

我々は、知らず知らずのうちに、こういった訓練を自分に課してきました。
それが現実に適応することだと、すっかり信じ込んでしまっているのです。

「あの人は、小さいことを全く気にしないな。ちょっと鈍感なんじゃないのか?」
「彼はスケールが違う。俺たちと違って、遙か先の方を見ているよ」
「君は、よくあんなことを言われて気にならないな。俺だったら辞表を叩きつけているよ」

大人物とか大成功した人は、得てしてこういった特性を持っていると思いませんか?
人のリアクションに対して、いちいち細かく一喜一憂しない。

「アイツぁ、大物だよ!」

なんて揶揄されたりしますが、この特性は決して無視できない重要な要素です。
彼らは図太いのです。神経が図太いのではなく、意図そのものが図太いのです。

物理的に、本当に図太いんですよ。

まるで小動物のように、ちょっとしたことにビクビクして、意図の出し入れを頻繁に行っている人間からすれば、彼らはそんな風に見えて当然なのです。

あなたは彼らのように「図太い」でしょうか?
もしそうでないとしたら、現実に振り回されるのは当然なのです。
図らずも、自分自身をそのように調教してきたわけですから。
現実に対するリアクション装置としての習性が染みついてしまっていては、意図して望んだ現実を創っていくことなど、出来なくて当然なのです。

では、このやっかいな習性を、一体どうやって矯正していったらいいのでしょうか。

答えは簡単です。

「人を見て態度を変えない」

これだけのことです。
世界に秩序をもたらすためとか、不平の横行を未然に防ぐためとか、そんな理由からでは全くありません。
あなたが意図的に望んだ現実を創造するために、そうするのです。

誰かが、あなたにどんなリアクションを返してこようが、そんなことは関係ありません。
そんなことに一喜一憂して、意図を出したり引っ込めたりしている場合ではないのです。そもそも、そんなものは意図でも何でもありません。
今まではそれが自動化されていたかもしれませんが、その活動はあなたにとって何の利益ももたらしません。今すぐ捨て去るべきです。

難しそうですか?

では、まずは一つだけ、トレーニングとして始めてみてください。
自分にとって、実行しやすいものを一つ決めてください。
何でも良いのですが、例えば上で例として出てきた、

「笑顔でおはよう」

これを、誰に対しても同じようにやってみる。
…見ず知らずの人にまで、無理に行う必要はありませんよ(笑)。

例えばテーマを「会社の人には笑顔で挨拶する」と決めたら、仲の良い同僚や上司以外にも、同じようにやってみる。
仲の悪い人や、嫌いな人にも同じようにやってみる。
相手がどんなアリアクションを返してこようが、

「そんなことは、私にとって何の関係もない。私は今、意図を撤回しないというトレーニングの最中なのだ」

こんなモチベーションでやってみてください。
あなたにとってやりやすいものなら、テーマは何でも良いですよ。
逆に、

「誰に対しても、同じように挨拶しない」

でも構わないわけです。
でも、これは案外難しいかもしれませんね(笑)。
できるだけ簡単なテーマでやってみてください。

やってみると分かりますが、

「自分は普段からリアクションに過敏反応して、こんなにもアッサリと意図を引っ込めていたのか!」

これに気づいて愕然とすると思います。
でも、気づいただけでも大収穫です。

まずは、簡単なテストだと思って気楽に始めてみてください。
結構、病みつきになりますよ(笑)。

written by 108

10 月 27

以前、引き寄せスレで

「どんな願望でも持って構わない」

と書きました。
もしそうだとすると、こんな風に考えてしまう人がいるかもしれません。

「それじゃ『銀行強盗や殺人を成功したい』という願望も、持って良いことになるのではないか」

「『世界征服したい』という願望を、叶えることが出来るのか」

少しばかり、子供じみた発想だと思われるかもしれません。
しかし今回は敢えて、この部分について少し掘り下げてみましょう。

あ、その前にあらかじめ言っておきますが、そんな願望でも「持つこと」自体は問題ありません。
そのこと自体に「良い」「悪い」はありません。
また「叶えることが出来るのか」という問いについても同じです。
「可能」です。

さて、上記のような、いわば「破壊的な願望」を突き詰めてみると、あることが見えてきます。

例えば、

「私は銀行強盗を成功させたい!」

この願望を少し掘り下げてみます。

「どうして銀行強盗を成功させたいの?」
「そりゃ、成功すれば大金を手に入れることが出来るからだよ」

もう出てきました。
本当の願望は「大金を手に入れること」だったわけです。
では、他の願望についても同様に検証してみます。

「どうして殺人を成功させたいの?」
「社会に裏切られてばっかりで、ちっとも良い思いをしてないから。誰でも良いから復讐してやるんだ!」

またしても、すぐに出てきました。
目的は「殺人」ではなく「復讐」でした。
もう少し掘り下げます。

「どうして、社会に裏切られてばっかりで、良い思いをしていないの?」
「こっちが聞きたいよ!この現実社会は自分を受け入れたくないんだろう。なんか知らんが、社会全体から呪われてるんだ。だから良い思いなんて出来るはずがない」

お分かりでしょうか。
この人は、

「自分は社会に受け入れられていない」
「社会から呪われている」

という観念を保持していました。
ここをもっと掘り下げると、おそらく

「自分は人より劣っている」
「自分は嫌われている」
「だから自分は成功してはいけない」

このような思いこみが現れてくるでしょう。
ここではそれを割愛して、この人が持っているもう一つの観念について、追求していきます。

「どうして『誰でも良いから』復讐したいの?」
「とにかく、社会に仕返しをしてやりたいんだよ!」

もう少し、シツコク食い下がってみます(笑)。

「どうして、社会に仕返しをするために、殺すのは『誰でも良い』の?」
「俺を苦しめているのは社会だからだよ!だから、殺すのは誰でも良い」
「答えになっていません」
「だから!!苦しめているのが誰かなんて、個人的な特定は出来ないんだよ!
社会は全て敵だ!俺以外は敵なんだ!だから、俺以外の誰かを殺せば、それは社会に復讐したことになるんだよ!!」

かなりハッキリしてきました。

この人は、自分と社会とを「分離した、二極の対立構造」として捉えています。
「誰でも良い」というのは「実際には、そんな特定の相手は存在していない」からだと分かります。

お気づきでしょうか。

この人の求めているものは「愛」なのです。
受け入れられ、愛されたいというのが本当の願望です。
それは、表面上の願望として現れている「誰かを殺す」という目的を達成したとしても、決して得られるものではありません。
彼は、裏に潜んでいる本当の願望とは、まるで逆の願望を持ってしまっているのです。

殺人願望が「社会全体への復讐」ではない場合もあります。
例えば、こんなケースです。

「どうして殺人を成功させたいの?」
「アイツが憎くて憎くて、仕方ないからだよ!」
「どうして、憎くて憎くて仕方ないの?」
「アイツが、私に酷い仕打ちばっかりしてくるからだよ!」
「どうしてその人は、あなたに酷い仕打ちばっかりしてくるの?」
「知らないよ、そんなの!私のことが嫌いなんじゃないの!」
「どうしてその人は、あなたのことが嫌いなんだろう?」
「何か、私に気にくわないところでもあるんでしょ!!」

この人とその相手とは、継続性のある「特定の傾向を持った関係性」を築いていることが分かります。
その結果、この人は「私は特定の人物にとって気にくわない」という観念を持っています。
そして、この人の本当の願望は「特定の人物から嫌われたくない」つまり、「誰からも愛されたい」です。
この人の場合も、本当の願望である「誰からも愛されたい」とは、正反対の願望を表面上、抱いてしまっているのです。

このように「破壊的願望」には、その裏に正反対の「本当の願望」が隠れています。
そしてその願望は、表面的に保持している「破壊的願望」を達成しても手に入れることが出来ないものです。
その破壊願望が実現されると、むしろ本当の願望実現からは遠ざかってしまうことが分かります。
つまりそれは、幸せから遠ざかってしまうということです。

それでもあなたは「破壊的願望」を実現させたいでしょうか?

どんな願望でも、持つことは自由です。
実現させることも可能です。
でも、せっかくなら「本当の願望」の方を実現して、幸せを感じた方が良いに決まってます。

最後に、例としてあげたもう一つの破壊的願望である「世界征服」について、掘り下げてみましょう…

…ちょっと待ってください。内部から私に問いかけてくる声がします。
少し耳を傾けてみましょう。

「あなたは、どうして『世界征服』が『破壊的願望』だと思うの?」
「いや、だってそうでしょう。世界を意のままに操るなんて…」
「どうしてそれが『破壊的』なの?」
「それは、う〜ん…」
「ねえ、どうして?」
「…」

written by 108

10 月 14

壁は、自分と対象とを隔てます。
対象を自分のゾーンに侵入させないための、バリアみたいなものです。
それは精神的な面にも、肉体的・物質的な面にも同様に作用します。
あなたの安全を維持するため、このバリアは危険をシャットアウトします。

一見当然のように見えるこの活動には、逆に大きな問題点があります。
あなたは壁を作ることで自分自身を分割し、細分化して縮小していっているのです。

あなたにとって「現実」と見える外界は、実はあなた自身の内部からの投影です。
外界と見えるものは、あなた自身の一部なのです。

それがあなたにとって、好ましいものであっても、そうでないものであってもです。

それら全てをひっくるめて「あなた自身」なのです。
ところが、あなたはこれらに対して、

「これは自分にとって好ましいものだ。受け入れよう」
「これは好ましくない。壁を作り、自分から分け隔てよう」

このように取捨選択する度に、あなたは自分自身の一部を切り離しているのです。

あなたの目の前に、ある現実が提示された。
このとき、この現実はまだ、どのような属性も持っていません。
唯一「あなたの内部からの投影である」という属性を除いて。

ところが、これに対して、

「好都合だ」
「不都合だ」

このような判定をした途端、その現実は属性を持ち始めます。
あなた自身が選択したことによってです。
そして「不都合だ」と判定したことについては、あなたはそれを自分自身のものだとして「受け入れること」を放棄してしまいます。

文字通り、自らの一部を切り離してしまったわけです。

あなたは「受け取り拒否」しました。
しかし拒否したからといって、この「あなたの一部」は無くなったりしません。
言ってみれば「宅配便が届かなかった」というだけのことです。

配達できなかった荷物は、集配所に戻されます。
この集配所も、もちろんあなたの内部にあります。
そして、届かなかったため、再度配達されることになるのです。

あなたがある現実を、壁を作ることで受け入れなかったとします。
するとその現実は、形を変えて、再度あなたの目の前に現れてきます。
今度はその現実に「少しだけ」受け入れられる部分があるかもしれません。
しかし、他の部分については、やはり受け入れられません。
あなたは、またしても壁を作ることになります。

この活動は、永遠に止むことがありません。
そしてその都度、あなたは自分自身を細分化し続けているのです。
気がつけば、目の前には無数の壁があり、あなたを取り囲んでいます。
あなたは圧倒され、身動きが取れなくなっています。
しかしその壁は、あなた自身がせっせとこしらえてきたものに他ならないのです。
あなたはこうやって、自分自身をどんどん狭いスペースに追い詰めてしまっているのです。

この問題を、どうやって乗り越えたらいいのでしょうか。

答えは単純明快、「壁を作らないこと」です。

どんな現実が目の前に現れたとしても、それに対して壁を作らない。
自分の内部からの投影として、受け入れるのです。
それが、あなたにとって好ましいものであろうが、そうでなかろうが。

「これは嫌だ」と感じたら、その感情をも拒否しないで、充分に観察してみる。
その対象も「自分自身の一部である」という認識を持ちながら、愛を持って観察してみます。
「嫌だ」という感情を充分に感じきることで、その投影が現れた目的は達成されます。

荷物は届いたわけです。

あなたが壁を作ってきた対象は、単にその荷物を届けてくれる「配達人」に過ぎなかったのです。
今まで我々がしてきたことは、せっかく荷物を届けに来てくれた配達の人に対して、

「そんなものいらない。余計なことをしないでくれ」

と、配達人そのものを拒否していたようなことだった、というわけです。

とんだ見当違いでした。

どんな荷物であれ、その配達を依頼したのは「あなた自身」です。
それなのに、それをわざわざ届けてくれた対象に、感謝するどころか、否定して拒否するような態度を持ち続けていました。

でも、その勘違いは解消されました。
あなたは荷物を受け取り、配達人に「ありがとう」といいます。
荷物が届いたので、配達人の役目は終わりました。
彼がその荷物を持って、再びあなたの前に現れることはないでしょう。
荷物を受け取ってしまったので、逆にそんなことは不可能です。
あなたは荷物を部屋に持ち帰り、中身を確認します。
これで、一つのプロセスがめでたく完了しました。

こうすることによって、全ての対象における属性はニュートラルに保たれます。
あなたは、それに不都合な属性を与える機会から解放されます。
つまり、壁を作る必要がなくなったわけです。
もはや、対象をあなたから切り離す必要はなくなります。
こうして受け入れることで、それは「あなた自身」と統合されます。
同時に、同じ属性の無数の壁が消失し、分け隔てていたものとあなたとが再統合されます。
息苦しかったあなたの周りに、徐々にスペースが出来ていくのです。

こうしているとき、あなたの内部で一体何が起きているのでしょう。

あなたは愛を増幅しているのです。
受け容れることによって「否定」という属性を取り除いているのです。
つまりそれは、あなたが自分自身に幸せを許可している行為なのです。

ここで、ひとつ疑問が生まれます。

「壁を作らず、全ての状況を受け入れるということは、現実的な危険を受け入れることになるんじゃないのか?そんなことをしていたら、命がいくつあっても足りないよ!」

この疑問はごもっともです。
しかし「壁を作らない」ということは、何も「生命体としての安全を放棄しろ」ということではありません。

目の前に現れた人々に「片っ端から、抱きついてキスしろ」と言っているのではありません。
そんなことをしても「危ない奴だ」と思われるだけです(笑)。
また、猛スピードで突っ込んでくる車を受け入れ、そのまま轢かれろと言っているのでもありません。
当然ですが、そんな状況からは身を守るのが賢明です。

そういった「生命を維持するための、自動的で本能的な活動」を停止しろ、ということではないのです。

必要なのは「壁を作らない」ということだけです。

向こうから怖い人が歩いてきたら、その「怖い」という感情を充分に感じて観察してください。
しかし、その人も「自分自身の投影である」という認識に基づき、愛を持って受け入れてみてください。
あなたは普段そうしているように、普通に彼の横を通り過ぎるでしょう。
しかし、壁は作らないで済みました。
「自己の細分化のプロセス」は行われなかったわけです。

危ない運転をする車に、危うく轢かれそうになったら、

「危なかった、怖かった」

あるいは

「助かって良かった」

という感情を充分に感じ、観察してください。
そして、

「あの運転手は許せない」
「いつか復讐してやる」

と思ったら、その時の感情自体も充分に感じ、観察してみるのです。
しかし同時に

「あの車も運転手も、自分自身なのだ」

ということを思い出してください。
思い出したら、愛を持って受け入れてください。
そうすれば、自己を細分化しなくてすみます。

壁を作るということは、自らに制限を作るということです。

「ここからここまでが私です」
「それは、私から分離します」

こんな風にです。
その自ら設けた制限が、あなたの自我、つまり「エゴ」を形成していくのです。

このプロセスを中止し、目の前の世界を、あなたと再統合していってください。
そうすれば、あなたにとってのこの世界は、本来の属性を取り戻すことになります。
それは「愛」という属性です。

赤ちゃんの綺麗で純真なまなざしを、思い浮かべてください。
あのまなざしは、自我や分割という概念のない、愛に満ちた本来のまなざしなのです。
あなたが再びそのまなざしを持つようになれば、世界もあなたに愛を返してくれるようになります。
それはあなたが、世界に「愛」という属性を与えているからなのです。

どうでしょう。
「ひとつやってみようか」という気が起きてきたでしょうか?

「でも、大変だぞ。これまでに作ってきた無数の壁を、一つ一つ消去していくなんて。一生かかっても、果たして終わるかどうか…」

こんな風に心配しなくても大丈夫です。
あなたが、ある機会に壁を作らなければ、それと似たような壁は連鎖的に消えていきます。
あなたが「もう壁は作らないぞ」と決心して、機会ごとにそうしていると、その他の壁も次々と消えていきます。
無数にある壁は、まるでドミノ倒しのように、一気に崩れて消えていくのです。
壁がたくさんあればあるほど、壮大なドミノ倒しが起こります。
これは、爽快ですよ。

さて、最後にひとつだけ素敵なことをお伝えしましょう。
このドミノ倒しは、決してあなたの内部でだけ、起きていることではありません。
あなたがドミノ倒しを始めると、そのドミノは、他のあらゆる人たちのドミノも倒し始めるのです。
なぜなら、あなたと世界とは、実際には不可分だからです。

信じられませんか?

では、試しにドミノをひとつだけ、倒してみましょう。

全ては、この最初の「たったひとつのドミノ」から始まるのです。

written by 108

9 月 02

私たちは知らないうちに、いくつもの「壁」を作っています。
私たちは、来る日も来る日も、毎瞬毎瞬、無数の壁を作りながら生きています。
習性となってしまっているため、それは無意識で自動的な活動です。
今この瞬間にも、あなたは次の「壁」を作る場所を探そうとしています。

それは、このようなものです。

あなたは電車に乗っています。
途中で、赤ちゃんを抱っこしたお母さんが乗ってきました。
あなたはその赤ちゃんを見て「かわいいな」と思います。
心が和む瞬間です。

しかし、赤ちゃんは突然泣き始めました。
それも、もの凄い勢いでです。
激しく泣き叫ぶ赤ちゃんの泣き声ほど、人の神経を逆なでするものはありません。
あなたは「うるさいな」と感じます。

周りへの迷惑など、お構いなしです。
赤ちゃんは、一向に泣きやむ気配がありません。
あなたは、だんだんとイライラしてきます。
「全くうるさい。お母さんも、もう少し上手く、あやし付ければいいのに…」

あなたは目的地の駅に到着します。
電車からホームに降り立ったあなたは、あのうるさい泣き声から解放されて、

「やれやれ」

と一息つきます。

あなたは「うるさい赤ちゃんの泣き声」から解放されたと思っています。
しかしこの間、あなたは既に壁を作ってしまいました。
赤ちゃんとそのお母さん、それとあなたとの間にです。

あるいは、こんなケースもあります。

あなたが道を歩いていると、向こうから、見た目がいかにも怖そうな男性が歩いてきます。

「うわ〜、いかつい感じの人だな。目つきも悪いぞ。
通りすがりに因縁でも付けられたら、たまったもんじゃない」

あなたは怖々とその人とすれ違います。

…何事もありませんでした。

「あ〜、良かった!」

あなたは無事で済んだことを喜びます。
しかし本当は無事ではありません。
なぜなら、すれ違った人との間に「壁」を作ってしまっているからです。

「壁」は、あなたが嫌悪感を抱いた「人」や「物」に対して作られるとは限りません。
こんな場合もあります。

あなたが美容院を訪れました。行きつけの美容院です。
ところがそこに、初めて見る顔のスタイリストさんがいます。
どうやら前回カットに訪れたあと、新しく入って来られたようです。

しかし、このことに少し問題点がありました。
その美容師さんは、あなたにとって、もの凄く「タイプ」な人物だったのです。
まさしく「理想のルックス」と言っていいでしょう。

「うわ〜、参ったな。メチャクチャタイプじゃん!緊張して上手く喋れそうにないよ…」

あなたは、その美容師さんと自分のと間に、即座に「壁」を作り出してしまいました。

こうやって好ましいものにも、その逆のものにも、私たちは絶えず「壁」を作り出しています。

壁は絶えず作られ続けていますが、勝手に消えてしまう場合もあります。
先のケースでは、理想のタイプの美容師さんが、話してみたら結構気さくで、意外に馬が合ってしまった場合などです。
こんな時、最初の印象で作り上げてしまった壁は、気がついたらなくなっています。
しかし、その美容師さんが無口で、なかなかうち解けられないような場合、依然として壁は存在し続けます。

壁が消えるか、そのまま存在し続けるかは、現実がどのように展開していくかにかかっています。
対象との関係が、あなたにとって好意的に展開していけば、壁は自ずと消えます。
そうでない場合、壁は消えません。
しかしいずれの場合も、「壁を作る」というあなたのプログラムがキャンセルされたわけではないので、あなたはまた別の対象に対して、壁を作り続けるのです。
しかも、壁を作るのは「あなた」ですが、その壁が消えるかどうかは、現実の展開いかんにかかっています。
自ら作り出したにも関わらず、作った途端、壁はあなたのコントロールから離れてしまうのです。

なぜ、私たちは「壁を作ろう」とするのでしょうか?

それは「自分を守るため」です。

私たちは常に、精神的・物質的な危険から身を守ろうとしています。
それは人間として安全に生存していくためです。
人間として生存していくためには、生命の安全があらゆる角度から保証されている必要があります。
つまり、危険は判別して遠ざける必要があるのです。

「これは危険」「これは安全」

こうやって毎度区別しながら、危険を感じたものには壁を作り続けます。

そしてこれは、自分自身に関してだけ作動しているシステムではありません。
愛する人や家族が出来れば、その安全まで視野に入れて壁を作っていきます。
あなたが組織に属していればその組織、あなたが住んでいる地域、あなたの国…
といったように、様々な単位での「壁」を作る必要に迫られます。
そして、実際にせっせと作り続けているわけです。

ところが、あなたが「自分と対象との間に作っている」と思っているこの壁は、実は外部には存在しません。
どこをどう探しても、そんな物は存在していないのです。

そうです。実際に壁を作っている場所は「あなたの内部」です。
それ以外のどこを探しても、実際に壁はありません。

自分自身を危険から遠ざけるために、いわば本能的に内部に作られる「壁」。
これに、いったいどのような問題点があるのでしょうか?

〈つづく〉

written by 108

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