7 月 13

昔、知り合いの人にこんなことがありました。

その人は高速道路を車で走っていたのですが、なんと走っている最中に、いつの間にかタイヤが一本外れてしまっていたそうです。

でもそのことに気付かなかったため、その人はずっとタイヤ三本で走り続けていた。
外れていたことを知ったのはずっと後のことです。

そんな不安定で危険な状態で、どうしてなんの不都合もなく車を走らせ続けることが出来たのでしょう?

「そりゃ、偶然にもカーブのない長い直線道路で、ハンドルを大きく切る必要がなかったからだよ。高速で走っていたので慣性の法則が働いて、車はバランスを崩すことなく走り続けることが出来たのだ。そういうことって、たまにあるらしいよ」

そうかもしれませんね。
物理的な説明を求めるとそういう結論になるでしょう。
でも私が言っているのはそういうことじゃありません。

「本当にずっと前からタイヤは外れていたの?」

ということです。

彼は運転中「タイヤが三本しかない」ということを事実として認識していなかった。
つまりそのとき、彼の意識には「タイヤが三本しかない」という事実はなかった。

じゃあ、そんな事実は存在していなかったんじゃないの?

少なくとも彼が「タイヤが一本外れている!」ということを事実として認識するまでは。

このことを彼の側からだけ捉えると、別にそれでも問題ないことが分かります。
だって事実しばらくの間は、タイヤが万全な時と同じ状態で走行を続けていたわけだから。

「でも、彼がそれを事実として認識するまでに、既に別の人がそれに気付いていたかもしれないじゃないか。対向車がパッシングをしたり、クラクションを鳴らして知らせようとしたり…。タイヤが外れていると気付くまでの間、『そういや、確かにそういうことがあったな』と彼に思い当たる節があるなら、やっぱり彼が気付いていないだけで、それは現象として起きていたんだよ」

分かります分かります。
ですが、ちょっと待ってください。
その「対向車がパッシングした」「クラクションを鳴らされた」というのは、本当にタイヤが外れていることを知らせようとしてのことですか?
そんなこと、タイヤが外れたことがない私にだって、幾らでも経験がありますよ。
パッシングやクラクションが「その時点で既にタイヤが外れていた」ということの証明にはなりません。

「だから!その車は結果的にタイヤが外れていたんでしょ!それならパッシングやクラクションは『それを知らせようとしていた』ということになるじゃない!!」

…ハイ、引っかかりましたね。

「…君、今の聞いたね?」
「はい、聞きました」
「…君も聞いたね?」
「はい、聞きました」

「…オイオイ、なんのマネだ!一体こりゃどういうことだ!」

(by 刑事コロンボ)

あなたは自分自身で認めてしまったんですよ。

「『結果的に』タイヤが外れていたから、パッシングやクラクションは『それを知らせようとしたことになる』」

あなたはこう言いましたね。
これは、

「彼がタイヤが外れていると認識した」

つまり、

「彼の意識体験に『タイヤが外れている』ということが入ってきてから初めて、『パッシングやクラクションはそれを示唆する事実として存在』したことになる」

と認めているということです。

彼が脱輪を認識した時点で、対向車のパッシング等はそれを支える事実となった。
これは確かに真実です。

この二つの事象間においては、敢えて時系列的な観点から見ても「脱輪したことに気付いた」方が後です。それ以前の時点では、彼の意識体験に「脱輪」という事実は存在していない。確かに対向車にパッシングされたかもしれませんが、パッシングという事象単体のどこを探しても「脱輪」という要素は見あたらないのです。

彼が脱輪に気付いてから、

「あっ、さっきのパッシングはつまり…」

こう認識した時点で初めて、彼の中で脱輪とパッシングとが結びついたわけです。

「あなたが属性を認定するまで、全ての事象はニュートラルである」

これまでに何度も言ってきたことです。

では分かりやすくするために、映画のフィルムに置き換えて考えてみてください。
主人公が高速道路で車を走らせていると、対向車がやたらクラクションを鳴らしたりパッシングをしてきたりする。
おかしいなと思って車をパーキングに止めようとしたところ、急に車の挙動がおかしくなる。車は傾きながらなんとか停車し、車を降りた主人公はタイヤが一本外れていたことに気付く。

この映画をそれぞれのシーンごとに抜き出して単体で観察してみても、それぞれは何の因果関係も示していません。
それを時間軸に沿って、

1.クラクション
2.パッシング
3.不審に思う
4.速度を緩める
5.車の挙動がおかしくなる
6.停車して脱輪を確認する

このように順番に連続性をもって見ていったとき、初めて、

「ああそうか。対向車は主人公に脱輪を知らせようとしていたのだ」

という解釈が成り立つわけです。

1や2の時点ではクラクションもパッシングも「脱輪を示唆している」という属性は持っていません。その属性が与えられるのは6の時点です。その時点までは、別の言い方をすると「属性は確定していない」

このように彼の意識体験においては、どう頑張ってみたところで「パッシングやクラクション」が「彼が気付く以前に脱輪が発生していた」ことを証明する根拠にはなり得ません。

…まだ納得できませんか?
よろしい。往生際の悪いあなたのために、もっと分かりやすく徹底的な説明を試みましょう(笑)。

(つづく)

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written by 108

7 月 12

前回のコラムでご紹介した「直結メソッド」はお試しいただけたでしょうか?

「正直『先取りメソッド』との違いが分からないよ!」

こんな風に、いまいちピンと来ていない方もいらっしゃると思います。
というわけで、今回は解決編です。

「先取り」という概念には「時間」の感覚がつきものです。
これによってどうしても「今現在、実際には望む状態ではない(実現していない)」という信念を支えてしまいがち。
だから、この「時間」という概念そのものを無視してしまおう、というのが前回記事の要旨でした。

あなたにとって何か望む状態があるのなら、そのあなたに「今」なってしまう。

これが直結です。

なった「フリ」じゃありませんよ。本当になってしまってください。

※このニュアンスはとても微妙なものなので、今回は念入りに説明したいと思います。

****************************

「たった今、望む自分になった」

こう選択したとき、即座に思考が働き出します。

「オイオイ、そんなわけないだろ。周りを見てみろ。何も変わっちゃいないじゃないかよ」

あなたは本当に望む自分になったかどうか、目の前の状況と照らし合わせて確認しようとします。現象化によって自分の選択に確証を持ちたいためにです。

ところが、どうやらそれを後押ししてくれる現象化はなさそう。
あなたはこれで意気消沈し、直結は一瞬で解除されます。

…でも、これっておかしくないですか?
本当に望む自分になっているなら、何故現象化という確証によってそれを証拠立てる必要があるのでしょう。

願望を既に実現している「あなた」なら、目に見える現実の中からその証拠を血眼になって探し回ったりはしない。

こんな時、直結はできていません。
これでは単なる、

「直結したフリをして、恐る恐る様子を伺っている状態」

に過ぎません。

どうしてそうなってしまうのか。
直結を意識的に一瞬で解除してしまっているからです。

あなたは確かにほんの一瞬、実現した自分と直結できていたのかもしれません。
しかし証拠を探し始めた時点で、もう直結以前の自分に戻ってしまっているのです。

たとえば、あなたの金庫に現金十億円が置いてあるとします。
実際に現金十億円をずっと持っている人が、

「私は本当に十億円持っているのかしら」

と、何度も何度もわざわざ金庫を開けて確認しに行くでしょうか?
お金が大好きな人なら、毎日でも金庫を開け、現金を目の前に悦に入るかもしれませんが(笑)、別に十億円の存在を疑ってそうしているわけではありませんよね。

あなたは車を持っていますか?
もし持っているとして、

「私は本当に車を持っているんだろうか。車が突然消え去って、本当は持っていなかったということになってないだろうか」

と心配して、何度も何度もガレージに車を確認しに行くでしょうか?
初めて車を買ったばかりの頃なら、嬉しさのあまりそうするかもしれませんけど(笑)、これも車の存在に疑問を持ってそうしているわけではありません。

では、あなたは呼吸が出来ますか?

「当たり前だよ!」

そうでしょうね。
そうでないとしたら、こんなブログを余裕こいてのんびりと読んでいる場合ではありません(笑)。
じゃあ当然、

「私はひょっとして呼吸が出来ないんじゃないだろうか?」
「私が息を吸うことで本当に空気が入ってくるのだろうか?」

なんてことは思いもしませんよね?
貴方が呼吸できることはれっきとした事実であって、一々現象に目を向けて確認する必要なんてないからです。

では、あなたの身体には頭がついていますか?

「…待てよ、そんなこと考えもしなかったな。本当にそんなものがくっついているのか甚だ疑問だ。ここはひとつ鏡の前に行って、本当に頭がくっついているか確認してこよう」

…とはならない。ならないの巻(by パンクブーブー)

何故って、確認するまでもなく、それは疑いようのない事実だからです。
言い換えれば、あなたはそれを100%確信している。
疑念の入り込む余地はない。だって事実なんだから。

あなたが既に持っているもの、あるいはあなたが「今の自分はこれこれこういった属性である(こういった状況を抱えている)」ということに関して、あなたはそれを現象面で一々再確認するようなことはない。

だって事実だから。
事実だと「知って」いるから。

…でも、本当に事実ですか?

(つづく)

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written by 108

1 月 27

ヒジョ〜に遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
本年もこんな調子ですが(笑)どうぞよろしくお願いします。

ところで、年始って何ですかね?
年の始め、年頭のことですよね。

昨年の年頭ブログに「今年一年を振り返る」という記事を書きました。
面白い結果が出た方もいるでしょうし、そうでない方もいるでしょう。

良い結果が出た方は、おめでとうございます。
そうでなかった方は、ごめんなさい。

ところで、今回はある提案があります。
「年始に一年を振り返る」もそうですが、願望実現のための方法論として、こういった時間を逆利用したメソッドというのはよくあります。

チケットでご紹介した中にもありますし、探せば他にもいろいろ出てきます。
もちろんこれで効果が出ている人は結構ですし、そのまま続けていただいて構わないのですが…。

そうではないという方。

こういった「時間を逆利用するやり方」を止めてみませんか、という提案です。
止めて、じゃあどうするのか。

たとえば、あなたが大金を得たいとする。

通常なら、大金を得たイメージを想像したりして、思考を働かせます。
あなたはウフフと喜びます。
それで、いつ現実に大金が現れてくるかと楽しみにして待つことになります。

「実際に大金を得ることができたら、そのときこそは本当に喜ぶぞ」

というわけです。

このやり方では時間を逆ではなく「順」利用しているわけですが、逆利用したとしても、実際の実現の瞬間まで待つことになるのなら、結局同じことです。

「やっぱり待っちゃってるじゃん」ということです。

この「待つ」というのが曲者です。

「どうせ実現するまでには、ある程度の時間的経過が必要なんだろう」

というわけです。刷り込まれちゃってます。観念であり信念なわけです。

この常識的判断に基づく信念というものが、願望実現のためには非常に厄介な邪魔者であることは、チケット読者や板チケ住人の方、このブログの読者の方ならとっくにご存じだろうと思います。

じゃあ、なぜその信念をわざわざ活性化しちゃってるんですか、ということです。

今回ご紹介するのは、この信念を無視して時間をまったく利用しないやり方、題して「直結メソッド」です。

あなたが大金を得たいとする。
そしたら、いつか実際に実現した時まで喜びを延期するのではなく、今実際に喜びましょう。

「やった!大金が手に入った!バンザイ!!」

ということです。

あなたがモデルなみの美人になって、イケメンからモテモテになりたいとする。

「やった!モデルのような美人になって、イケメンゲットした!ヤッター!!」

あなたが慢性的な持病を抱えているとする。

「やった!完全に健康な身体になったぞ!ヤッホー!!」

あなたが…(以下、あなたの願望に当てはめてみてください)

…あれ、この「直結メソッド」って、これまでにあらゆる書籍で伝えられてきた「先取りメソッド」と同じじゃん。どこが違うの?と思ったあなた。

これは「先取り」とは違います。
「先取り」とは「ある事態より先にことを行う、または自分のものとする」ことです。
「ある事態より先に」ということでは、そこではやはり時間が考慮されているわけです。

「今はまだ、それは実際には起きていないけど、感情だけはお先に…」

というわけです。

違うんです。直結してください。
まだ起きていないことを先に喜ぶのではなく、あなたが「実現したら爆発させよう」と考えて保留している幸せを、今ここで炸裂させてください。

今までのやり方では、どうしても「時間」という信念が活性化されてしまう。
「今はまだ無理だけど、そのときの感情だけなら疑似体験できるよね」というわけです。

違うんです。疑似体験ではなく、あなたが実現までとっておこうとしたその「本当の喜び」を、今実際に、本当に経験するのです。

これは願望を実現するための「疑似体験」という方便ではなく、その「本当の喜び」を「今」経験しましょうという提言です。

実際にも、願望の実現にある程度の時間的経過が必要なのは、上に述べた旧式のやり方で喜びを経験したいという、あなたの習慣的反応、つまり信念を活用してしまうためです。

あなたはそうやって、ずいぶん先まで本当の喜びを大切に取っておくつもりでしょう。あなたの魂胆はまるっとお見通しですよ(笑)。

ですがどのみち、あなたが今抱いた願望が将来実現されたら、あなたはそのとき「待ってました!」とばかりに喜びを炸裂させるつもりなんでしょ?

そんなプロセスは不要です。待たなくて良いんです。

なら、今とっととそれを経験しちゃえばいいじゃん。

今、実現したことにしてしまう。

それで、今本当に喜びゃいい。

それが「直結」です。

うまくこのニュアンスが伝われば良いんですが…。

今回は「もう年の終わりまで待って結果を確認する、なんてことはしなくて良いですよ」というお話でした。

…えっ?
「お前、一年前と言ってること違うじゃねえか」って?
だってあれから一年もたってるんですよ。
それだけ「時間」があれば、私だって多少は成長しますよ(爆)!

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written by 108

12 月 25

あなたは既に幸せのまっただ中にいます。
その事を頭で理解できなくても良いから、今は証拠として目の前に見えていないかもしれないその幸せを、ただ感じてみてください。

目に見えていないその幸せを少しでも感じられたら、今後その機会を少しずつ増やしていって。
意識の比重を目の前にあるものではなく、徐々にそちらへと移していくのです。

あなたがその機会をたくさん持ち、意識の比重がそちらに移る度合いに従って、あなたの目の前のものが変わっていきます。
あなたは目の前のものに直接取り組んでいるわけではないのに、なぜか目の前のものが変わっていきます。

あなたの体験が変わっていくのです。原因は「そこ」にあったことが徐々に腑に落ちていきます。
腑に落ちてきたら、「それ」を一番大事にしていってください。目の前の経験ではなく、「それ」を最も大切なものとして扱ってください。

それこそが神の祝福です。それはもう既に与えられているのです。
あなたがそこに目を向ければ、それは目の前の現実として現れてきます。

それは全ての人に平等に、既に惜しみなく与えられているのです。
既にあるにも関わらず、あなたが「ある」と信じていないことによって、その経験は遮られています。

だから、まず「ある」という前提でそれを感じてみてください。
実際にもそれはあるのです。あなたが苦労して今から作り上げるようなものではないのです。

繰り返しますが、それは既に与えられています。
感じてみてください。

メリークリスマス!

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written by 108

12 月 05

2009年も師走に突入しました。
いかがお過ごしでしょうか。

ブログのデザインも、季節に合わせてちょっとイメチェンしてみました。気に入っていただけたでしょうか?

というわけで、今日は108から少し気の早いクリスマスプレゼントです。
と言っても「ザ・チケット2」の発売告知ではありません(笑)。
皆さんが居ながらにして、たった今、この場で祝福される奇跡のメソッドをご紹介します。

…やっぱりクリスマスに公開すべきだったかな〜(爆)。

まあ、私のことだからクリスマスに来られるかどうか分からないし(超爆)少し早めの方が良いでしょう。今公開しちゃいます。

それは一日限定で行うメソッド、題して「一日メソッド」です。

内容は「今日一日は、何があっても一切自分を責めない」というものです。

自分を責めることにどれほど正当な理由があるように思えても、それを採用しない。無視する。

誰かに「ごめんなさい」と言わなきゃならない場合でも、その時に自分を責めない。
「こんにちは」と挨拶する感覚で「ごめんなさい」「すみません」と言う。

しまった!部屋の電気を消し忘れたまま出勤してきてしまった!」という場合でも、その事について自分を叱らない。
私は部屋の電気をつけたまま出勤している」と単なる事実として確認するに留め、その事について自分の行為を責めない。

電車でシルバーシートに座ってウトウトしていた。電車を降りるとき、近くでお年寄りが立ちっぱなしでいたことに気付いて「あっ!」と思っても、罪悪感を使用しない。その事について一切自分を裁かない。

明日は早く起きなきゃ行けないのに、なかなか寝付けない」というときでも、その事について自己嫌悪にならない。その事で自分を一切責めない。
私は眠れない」と考えずに「私は今起きている」と考え、その事を発端に罪悪感を活用し始めようとする活動を中止する。

新聞に入っていたチラシを見ながら、

この欲しかったテレビ、まだ買えていないんだよな〜。うちはまだ古いアナログテレビだ。早くしなとアナログ放送が終わっちゃうのに…

と思っても、その事で自分を責めない。チラシを、自分を責める材料として使わない。

しまった!今自分で自分を責めてしまった!」と気付いても、その事について自分を責めない(笑)。

結構大変かもしれません。でも一日限定だから頑張って徹底してくださいよ。

さて、この一日メソッドを終えたとき、あなたはどんなことに気付くでしょうか。

あなたはこれまで、自分自身を一日中責め通しであったことが分かって愕然とするでしょう。

私はこれほどまでに休むことなく、自分自身を責めっぱなしであったのか!

と。
それに気付いても、自分を責めないでくださいよ(笑)。
今まで誰も指摘してくれなかったことなのだから、仕方のないことなのです。

もし、

今日は何があっても一日自分を責めないつもりだったが、結構責めてしまった

という人は、その事で自分を責めないで、期間をもう一日だけ延長しましょう。
要領は分かったはずです。次の日は自分を責めないことをもう少し徹底できるでしょう。

で、まだ徹底できてなかったなと感じたら、もう一日延長するのです。

やってみると分かりますが、このメソッドは一日の期間限定であるにも関わらず、出来れば継続して行いたいと感じるでしょう。
そう感じた方は「毎日メソッド」に名前を変更し、そのまま続けて頂いて結構です。
ですが最初から続けようとか思わないで、まずは一日限定で行うことをお進めします。
あとは、続けるかどうかはあなた次第。

この一日メソッドをやってみると、それを徹底できたかどうかに関わらず大きな気付きが得られます。

自分で自分を裁かない限り、自分は幸せである

という気付きです。
なんとあなたに不幸を経験させていたのは、他ならぬあなた自身であったということです。

そしてこのメソッドは、やればやるほどあなたに幸せを感じさせてくれることが分かります。
やればやるほど、あなたは今まで絶え間なく行っていた活動を逆に停止しなくてはなりません。それは「自分自身を責める」という活動です。

あなたがその活動を意識的に中断しただけで、不足はどこにも存在しないことが分かる。
今までその事に没頭し続けていたあまり、うっかり見落としていた重大に事実にも気付き始めます。

あなたはの周りは愛で満たされていたという事実にです。

あなたが自分を責めることに夢中で積極的に無視していたにも関わらず、それはいつも変わることなく、あなたを常に全力で包み込んでいたのです。
あなたが何をしようがしまいが、そんなことに関係になく、それはずっとそこにあったことに気付く。

これは殊更に大きな気付きです。しかもそれは、あなたにとてつもない利益をもたらすことになる。

まず自分を叱り飛ばすことに躍起であったため、敢えて無視してきた充足に向き直すキッカケとなる。
あなたが敢えて歪ませて認識していた現実を、歪みなく正しく認識できるようになってくる。これによって視点の転倒が解消され始める。

あなたが現実に一切手を加えていないにも関わらずです。

現実は依然現実として見えているかもしれない。にも関わらず、あなたは既に充足のまっただ中にいたことが、理屈でなく肌で感じられるようになってくる。

思考を全く活用していないにも関わらず、あなたはなぜかポジティブになっている。
窮屈だったはずのこの世界で、のびのびと自由に振る舞えるようになってくる。
無気力だったはずの人も、なぜか活力を得て自然に動き出す。
あなたは何もしていないのに、自然に動力を得て動き出す。

なぜなら、あなたが自分で邪魔していただけであって、それが本来のあなたの在り方だからです。デフォルトなのです。

こうなったら、もう罪悪感を活用して自分を責め続けたいという意欲は失われているはず。

そうしたら、その停止した活動を停止したままにしておけばよい。
あなたは素直に、自分を常に包み込んでやまない愛と充足とに屈服しようかという気になってくる。

そしてこの感覚、身に覚えがあるなと思い始める。それはあなたが物心つく前の幼子だったときの感覚です。
あなたが忘れて久しい、世界を曇りない純粋な眼差しで見つめていたときの感覚なのです。

こうして自分を責めることを放棄したあなたは、なんだかまだ不十分だなと思うはず。
このメソッドを色んな意味で拡張したいなと思い始める。

そうしたら拡張したら良い。
自分を責めないことが板についてきたあなたは、周りについてもそうしてみようかと思い始める。
それがどれだけ有用なことか、あなたにはもう始める前から分かっている。
それを始めたあなたには、一体どれだけの愛と充足とが流れ込むだろうか。

…いかがでしょうか。面白うそうでしょう?
では、まずはトライアルで一日、自分を責めないことに限って試してみてください。
その後さらに延長したり範囲を拡張するかどうかは、またそのとき考えましょう。

メソッドを試した方から、クリスマスまでにどんな嬉しい報告があるか楽しみです。
残念ながら私はクリスマスは忙しいので、ここに来る暇はないと思いますが。

えっ?どうしてかって?
だって私はその頃、トナカイの引くソリに乗って世界中の子供達にプレゼントをばらまいている最中ですから(超爆)。

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written by 108

6 月 11

電子書籍「ザ・チケット」発売からちょうど一年経ちました。
もうあれから一年かぁ…
早いような、短いような(一緒だよ!)
不思議な感覚です。

この一年の間、本当に数多くの方にご愛読頂きました。
ありがとうございました。

「チケットのお陰で願いが叶いました!」
「毎日が楽に過ごせるようになりました!」

という嬉しいご報告を、コメント欄や板チケなどでたくさん頂いています。
執筆者として、こういった成果報告ほど嬉しいものはありません。
「ザ・チケット」を世に出して本当に良かったなと思います。
しかし一方で、

「まだ何も変化しません」

というご報告もあります。
そんな方達が必ずや幸せにたどり着けるよう、これからも語り続けていきますが、まずは一言メッセージを送っておきます。

「あなたは安全です。大丈夫」

たとえ今現在、あなたがご自分の現状に対してどんな想いを抱いていようが、このことだけは覆しようのない絶対的な事実です。

「あなたは絶対的に安全な領域にいます。心配しないで」

あなたが自分や周囲に対して感じている不満や不足という条件づけを一旦下ろし、まずはこの絶対的真理を無条件に認め始めてください。

「私は安全だ。大丈夫」

静かになり、このことをただ単純に受け容れてみてください。
思考を使わないで、ただ感じてみてください。

あなたが「私は安全で、大丈夫」ということに意識の焦点を合わせようとしている、ということは、取りも直さず「今、この瞬間」に意識の焦点を持ってこようとしている、ということです。
逆に「今、この瞬間」に意識を合わせようとしていると、どんどん「私は安全で、大丈夫だ」という絶対認識に焦点が合ってきます。
この二つは不可分で、どちらに焦点を合わせても、必ずもう一方の属性が現れてきます。自動的にそうなります。

もしこれが難しいということなら、あなたはまだ様々な条件付けを自分だと思い込んでいます。

「私にはあれが足りない」
「私はあれを欲しがっている」
「私はあれを手に入れなくてはいけない」
「それらを未だ実現していないのが私である」

というように。
残念ながらこの条件付けを持ち続ける限り、その欲しいものは中々手に入らないと思います。
なぜなのか。不足に強力に焦点を合わせ続けているからです。
したがって、依然として不足を再生産し続けることになる。

本当に欲しいものを手に入れるとき、意図は不足に向いていません。必ず充足に向けて作動しています。

どんな手段を用いようが、この原則は変わることがありません。非常に単純な理屈です。しかも我々が願望を実現するとき、このことは毎度体感していることのはずです。にも関わらず、いつもそれを忘れてしまいがち。

ところが、この半自動的な「不足への焦点」を簡単に解除する方法があります。
それは「今、この瞬間」に意識を持ってくることです。
思考を止め、条件付けを全て下ろしてやる。
すると、意識は勝手に「今、この瞬間」に合ってきます。
しかし習慣的思考の勢いがあるため、すぐに思考が息を吹き返してきます。

「でも、実際には何も解決していないよ」
「でも、問題がなくなったわけではない」

こんな風に。
こうやってあなたはすぐに条件付けを持ち出して「今、この瞬間」から目を背けようとします。その条件付けを含めたものが「自分自身」だと思い込んでしまっているので、それらはあなたと不可分のように感じてしまっているわけです。

しかし何度も言うことですが、これらはあくまで「条件付け」に過ぎないのです。別にそんな条件付けはなくたって一向に構わない。

その条件付けを取り払っても、あなたは増えたり減ったりしない。

だから、そんな思考が働きだして「今、この瞬間」の経験を遠ざけようとしていると感じたら、すかさず、

「OK。それはあとでやろう」

こうやって、思考の働きを単純に延期してください。
そんなことは「今、この瞬間」を充分に経験してから、あとで存分にやればいいじゃないですか。どっちみちそれらについて考え通しなのだから、ほんのちょっとだけその思考を中断したからって死ぬわけじゃあない。

だから、まずはその「あなたの中にある絶対的安全の領域」を充分に経験してみてください。それは誰の中にもあり、無条件に経験できるものです。その経験のための唯一の条件と言えるものは「あれこれ思考するのを止める」ことだけ。

今すぐやってみましょう。

…いかがでしたか?
今この瞬間に意識を合わせ、あなたが絶対的に安全であるという経験が出来たでしょうか?
よろしい。それでは思考を再開して、例の条件付けを全開にしてみましょう。

…おや?
何か変ですね。どうして条件付けが全開にならないのでしょう?
それはあなたが「絶対的に安全である」ということを知ってしまったからです。
それらの条件付けが「まやかし」であることが暴露されてしまったわけです。
このように「不足」とは、なんの実体もない単なる錯覚に過ぎないのです。妄想です。

さて、それが妄想であることを見破ったということで、改めてお聞きします。
あなたの欲しいものは何ですか?
あなたは何を経験したいのですか?

OK。ではそれを手に入れましょう。
もう不足という条件は必要ないですよね。意図を単純に充足に向けてください。
ワクワクしてきましたか?それでいいのです。
これが意図の働かせ方であり、チャンネルを変えるということであり、充足に目を向けるということです。

簡単です。そのために指一本動かす力も必要ないのです。
あなたは指を動かせますか?出来ますね。
じゃあ、当然これについても出来ます。

あとはやるだけ。

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written by 108

2 月 25

久しぶりの更新です。
ブログも、2chのLOAスレもずいぶんとご無沙汰してしまいました。
スレでのご質問に関しては、またボチボチとレスしていこうと思っています。

※私が不在の間に、LOAスレは重複して乱立状態になっているようです。
まるで細胞分裂したかのようで「どのスレでレスしたらいいのだ?」と、ちょっと混乱しています(笑)。
また、このブログのコメント欄でもいくつかご質問を頂いているのですが、前にもお伝えしたとおり、当面ブログでの質疑応答はやらないというスタンスなので、回答は保留させてい頂いてます。
(本当はブログの分だけでもレスしたいんですよ。でも、これも以前書いたように、それをやり始めると止まらなくなってしまうので(笑)敢えて制限しています。失礼とは存じますが、どうぞご容赦ください)

ただブログでもLOAスレでも、ご質問に対する回答をあまり長い間保留しているのはよくないとは思っています。質問者の方はそのタイミングで回答が欲しいわけだから、私が一ヶ月後にレスしたとしても、その回答がその方の現状にはもはや一致していないことも充分あり得るわけです。

これについては、ちょっと考えていることがあります。近いうちにアナウンスできると思いますので、もうちょっとお持ちください。

****************************

さて、本題に入ります。
LOAスレをちらっと覗いたんですが、「ザ・チケット」第七章についてちょっと誤解している方がいるようです。それは、こんな内容の書き込みでした。

「第七章の目的は願望消滅だ。エゴが消滅すれば願望など湧いてこない。願望がなければ、それによって苦しむこともなくなる。願望の『実現』『不実現』という状態について頭を煩わせることもなくなる。そもそも別の領域では願望は既に実現しているのだから、たとえそれが(現象として)見えなくても、そのことに満足してさえいればよいのだ」
(108注:複数の方による一連のやり取りから、主張となる部分を再構成しました)

これは甚だしく大きな誤解です。
ザ・チケット」の目的は「願望の消滅」ではありません。
もちろん「願望の消滅」が願望である方なら、その願望を叶えて頂ければ幸いです。
しかし「願望をなくせば幸せがやってくる」と思っているなら、それはとんでもない勘違いです。

願望はエゴではない

この間違った認識を修正するため、じっくりと考えていきましょう、
まず、この誤りの大元には「願望はエゴである」という誤解があります。
願望はエゴから発したものなのだから(実現しようがしまいが)それは不調和しかもたらさない、という思い込みです。

キッパリと言っておきますが、願望は決してエゴなどではありません。
願望の実現を邪魔しているものがエゴなのです。

以前「破壊的願望」で書いたように、願望そのものに良い悪いなどないのです。

あなたがあるひとつの願望を持ったとき、それがどんなものであれ、それはあなたの生命表現です。
「こうしたい」と思ったとき、それはあなたが命を表現しようとしている、ということです。

ザ・チケット第一章でも取り上げた「水を飲む」という事象について考えてみましょう。
あなたが「水が飲みたい!」と思ったとき、一つの願望が発生したわけです。
その事についてあなたは「それはとても良い願望だ!」とか「そんな身勝手な願望は許されない!」などと考えるでしょうか。
水が飲みたい。この願望はあなたの生命表現です。
そしてあなたは、実際に水を飲みに台所に行きます。なぜか?生きているからです。
あなたにとって「水を飲みたい」という願望を抱き、それを実現するということは生命活動として至極当然のことなのです。
「願望を持ってはいけない」ということは「これもエゴの仕業であるから止めてしまえ!」と言っているようなものです。

あなたが「お金が欲しい!」と思ったとします。この願望もあなたの生命表現です。
あなたが「あの男性と恋人になりたい!」と思ったとしても、これもあなたの生命表現です。これを裁こうとしてはいけません。それは単なる生命表現なのです。

ところが「オレオレ詐欺を働いて大金を得よう!」と思ったとき、この願望には余計なものがくっついています。
この人の願望は「大金を得よう!」のはずですが、そこに

「大金を得ることは難しい」
「大金を得るには、何かあくどいことをやらなくてはダメだ」
「オレオレ詐欺というのに、皆よく騙されている」
「つまり、比較的上手く方法のようだ」
「どうせ何やったって上手く行かないのだから、そんな社会のルールを守る必要はない」
「他にもあくどいことをやって非合法に大金を得ながら、何のお咎めもなく楽しくやっている連中だっている」
「自分がそれをしたところで、どうこう言われる筋合いはない」
「このまま破滅するくらいなら、やってみる価値はある」
「リスクはあるが、大金を得るにはこれしかない。やってみよう」

このように、余計な思考と信念がいっぱいくっついています。
これによって「大金を得る」ことに本来何の関連もない「オレオレ詐欺」という条件付けをしてしまうことになります。
この人は「オレオレ詐欺がしたい」わけではないのです。それは願望ではなく、エゴが勝手に思いついて関連づけた「歪んだ条件付け」でしかありません。

同じように「彼の恋人を殺して、代わりに私が彼の恋人になる!」と思ったとします。
この人の願望は「彼と恋人になる」です。ところが、

「彼には既に恋人がいる」
「恋人になるには、彼女の存在が邪魔だ」
「しかも私は、彼女ほどの魅力を持ち合わせていない」
「彼と恋仲になるには、彼女に消えてもらわなくてはならない」
「彼女の方から彼の元を去ることは、現状から考えてあり得そうにない」
「たとえ去ったとしても、すぐまた戻ってくるかもしれない」
「お互いの自由意志に任せていたのでは、私が彼の恋人になれる可能性は著しく低い」
「確実に彼を奪うには、彼女を殺すことが合理的である」

こんな風に、一定方向で働かせた余計な条件付けがいっぱい入っています。
さらにこの願望には、不必要なまでの執着の原因となっている、こんな条件付けもあります。

「私にとって彼以外の存在は、恋人として不適当である」

おまけに、意識の上には上ってきませんが(ほとんどの人が思いも寄らない)こんな矛盾した信念もあります。

「早く彼を得ないと、彼のことをいつまで好きでいられるか分からない」

さて、これらの条件付けを全て取り去ってみると、この人の本当の願望は「素敵な男性と恋仲になりたい」です。
ところがエゴは、様々な狭い歪んだ条件付けによって「本当の願望」とはほど遠い「不幸せ」の方向に願望を再定義してしまっています。結果この人はあらゆる面で「不都合」を経験することになります。

あなたが願望を抱いたとき、途端にエゴの様々な条件付けがくっついてきます。
この条件付けこそが、願望の実現を邪魔しているものなのです。
「思考は邪魔だ」というのはここです。
本来、願望は放っておけば勝手に実現するものなのです。
その意図を働かせれば、行動が必要なら勝手にその行動を取ることになります。
特定の状況が必要なら、勝手にその状況が整い、そこに駒を進めることになります。
思考によるコントロールは不必要なのです。あらゆる条件付けを含めたエゴのそういった働きは、実現を阻害する要素でしかないのです。

元々、願望自体に善し悪しがあるわけではない。それを条件付けて制限してしまい、一定方向のみにコントロールしようとするところから、不調和が始まるのです。

第7章

さて、ここでチケット第7章について考えてみましょう。
第7章では願望は既に実現しているのだから、その実現についてあれこれ苦労することはない」という主旨のことを書きました。だから必要なのは「それを見る」という単なる意図だけで充分であると。
ところが見たところ現実には何の変化もない。願望が実現している様子を現象として確認できない。こうして袋小路に追い込まれたあなたはこう考えます。

「私には見えない。この現象界では願望の実現を経験することはできないのだ。別の領域で実現されているとしても、それは私の現実とは何の関係もないようだ」

かくして「別の領域」は概念化され、体験の世界から切り離されます。そして現実の苦しみに対する「隠れ蓑」として、一時的なトランキライザーの役目を負わされる羽目になります。
これでは来世信仰と何ら変わりはありません。

「願望の実現という状態はすぐに体験できなくてはいけない。なぜなら、それは既にあるもののはずだから」

これでは第7章がさらなる「条件付け」になっているだけです。障害となっている要因がエゴから別の領域に移っただけなのです。
(実際にはエゴから1ミリたりとも動いていません)

第7章の提案は「そういった条件付け自体が願望の実現や幸せをせき止めているものなのだ。だから、条件付けそのものを即座に止めてしまおう」ということでした。
実際にも、条件付けを止めてしまえばあらゆる形で充足が見えてきます。結果、否応なくそれを経験することとなります。
ところが「条件付け」は我々の習い性となってしまっているため、これを直ちに放棄して充足を経験することが困難な人は多いでしょう。幸せを経験する為に、ほんの少しだけ自分自身の条件付けを解除しておくことができない。

なぜ解除できないのか。そんな未知の領域を完全に信頼して、自分の安全に対する支配権をすっかり明け渡すことなど、到底できないからです。
そんなことをしたらエライ目に遭う。そんなことをしたら身の破滅だ。そんなことをしたら家族が食いっぱぐれる。そんなことをしたら笑いものだ。そんなことをしたら死んでしまう。
エゴはここぞとばかりに非常ベルを鳴らして、それは危険だから止めてしまえと激しく抵抗します。
しかし、この危険は本当は「エゴ自身」にとっての危険です。エゴは自らの活動を維持するために、元々ある実現の状態を経験することをこうやって妨げます。あなたは自分を単なる非力な一生命体に過ぎないと信じ切ってしまっているため、エゴと自分とを同一視しています。だからこそ、このエゴの叫びはあなたにとってとてつもないリアリティを持って迫ってきます。
結果、別の領域は概念化され、あなたにとって体験できる領域から除外されます。
ですが実際のところは、あなた自身がエゴの抵抗でもって強力にせき止めているに過ぎないのです。

別の領域

あなたは思います。

「第7章を自分に適用したい。そして願望が全て実現した領域に一気に移動したい!」

しかし、そうはなりません。どうしてなんだ。別の領域など、どこにもない!

そうです。別の領域などありません。
思い出してください。「別の領域」とは、何に対して「別」なのでしょう?
そうです。エゴです。別の領域とはエゴとは別の領域という意味でした。(「ザ・チケット第1章参照」)
「別の領域」という表現は、エゴと対比されたときに初めてその意味を持ちます。

本来あなたはその領域に既にいたわけです。今もそこにいます。
しかしこの世界に生まれ出た瞬間、あなたはこう思い始めました。

「このちっぽけな生命体が私自身なのだ」

エゴの発芽です。
この想いは生きていくうちにどんどん大きくなり、あたかもそれを肯定するかのような現象化によってますます補強されていきました。
本当は、あなたはずっと「別の領域」にいます。今もそうです。
ところがあなたの意識は長い年月をかけ、その「エゴ」というあなたの微細な一側面に強力に集中してしまったため、その事が知覚できなくなってしまいました。
あなたはもはや、エゴと一体化してしまったというわけです。
そしてあなたがエゴと一体化してしまったために、本来のあなたという属性は「別の領域」という、エゴによって分離されたゾーンに隔離されてしまったのです。

本来のあなたの属性は、エゴにとって「別の領域」にあり、活用できない。
ところがエゴをバイパスし、別の領域の属性を垣間見ることがある。
メソッドを実行したとき、手放したとき、諦めた時、純粋に期待したとき…。
いつも起こるとは限りませんが、度々起きているはずです。
この現象はエゴの理解できる範疇を超えているため「なぜだか分からないけど」「あり得ない方向から」という形で起こります。
あなたは色めきだち「ようし、これをフルに活用しよう!」と思います。
エゴの領域から—。

分かりますか?それはエゴによってコントロールできる類のものではない。
「エゴは何一つ創造できない」ということを思い出してみてください。
再びエゴのコントロールボックスに着座しちゃ、ダメなんです。
せっかく本当のあなたを知覚できたのに、そんなもったいないことをしちゃいけません。

「そんなこと言われても、どうしたって、そうなっちゃうよ!」

分かります。このジレンマは多くの人が経験していることです。
ところがこの習性は、ちょっとした気の持ちようで簡単に修正できます。

現実を再定義する

例えば、今日一日を振り返ってみましょう。
あなたは朝起きて会社に行き、仕事をして家に帰ってきた。そう仮定します。
この間の出来事を想起してみます。
楽しいこと、嫌なこと、色々なことがあったでしょう。
あなたはポイントポイントでそれらを既に定義済みです。しかし敢えてこれらを定義し直してみます。

・朝電車に乗り遅れそうになった
→朝、電車に乗り遅れそうだったが間に合った

・通勤途中、車に泥をかけられた
→車に泥をかけられたが、轢かれずに済んだ

・仕事でミスをして、上司にこっぴどく怒られた
→ミスをしたが、上司に怒られただけで済んだ。私は怒らなくて済んだ。周りに同情され、仲間の愛を感じることができた

・仕事の後の飲み会に誘われなかった
→飲み会に行かなかったので、その分お金が浮いた。このお金で何を買おう?

・残業したので楽しみにしていたテレビを見損なった
→テレビを見ることより残業を選んだ。お陰で残業代を稼ぐことができた。このお金で何を買おう?見逃した番組は、そのうち見ることができるだろう。そういえば、お気に入りの同僚もあの番組を楽しみにしている。ひょっとしたら録画しているかもしれない。録画DVDを貸してくれないか、聞いてみよう。お近づきになるいい口実だ。もしかしたら「それなら部屋で一緒に見よう」ということになるかもしれない。その時は残業代分のお金で何か気の利いた物でも買っていこう。これはワクワクしてきたぞ!

どうでしょうか?

「馬鹿馬鹿しい!お馴染みのポジティブ思考かよ!」

と思われたかもしれません。
確かにこれらは、あなたが経験した同じ事象を、単に都合良く解釈して再定義しただけです。
ただ着眼点を変えてみただけなのです。そのために指一本動かしていません。
しかしながら、見えてきたもの、感じられるものは明らかに充足の方向性です。
こう考える癖をつけていると、常に目の前の「不足」ではなく「充足」を見ようとしていることになります。

こうやって、エゴから見たら現象化に何ら特別な変化が起きていなくても、あなたは度々充足を感じられるようになっていきます。
そしてその時、あなたは実際に別の領域の充足を経験しているのです。
そしてこの「再定義」の習慣は、単なる「現象の好都合的解釈」ということに留まりません。
これによって、これまでエゴによって巧みに隠蔽されてきた「実際の幸せ」に対するベールが、どんどんはがれ落ちていきます。
あなたがどうあってもこの態度を撤回せず、常に充足に着眼し続けていると…
もはや再定義の必要のない完全な充足の状態を、実際の物理現象として経験することになります。

気がつけば、あなたの視点は180度移動しています。
不足に向いていたものが、充足に向き直ったのです。
そこには充足しかありません。でも、もしかしたら…
あなたは振り返ってみます。ところが、そこにも充足しかありません。
不足はどこにも見えません。そんなものは存在していなかったのです。
あなたはすでに別の領域にいたことに気付きます。
いや、別の領域という言い方は適切ではありません。
エゴはあなたではなく、あなたの微細な一部分に過ぎないことに気付いたとき、それは統合されてあなたは全体となっているのです。
そしてそれは、最初からずっとそのままで決して変わることがなかった、あなたの本来の属性であることに気付くのです。

簡単なことです。今から始めてください。
そして撤回しなければ、それは自ずと見えてきます。
それがあることを知っていれば、それは見えないことなどあり得ないのです。
それでもエゴが囁いてきたら、

「それも良いかもな。でも、俺はこっちを見るよ。もう決めたんだ」

そう軽やかに言って、態度を貫いてください。それだけで良いのです。
それが「意図を持って選択する」ということです。
あなたは本当は、既に溢れんばかりの充足に今、包み込まれているのです。

「別の領域」とは、どこか違う場所に存在している、あなたとは別の特殊な領域などではありませんでした。

それはあなた自身であり、実際には、あなたはずっとそこにいるのです。


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written by 108

1 月 21

今日は瞑想の話です。
私は瞑想について、これまでメソッドとしてはあまり取り上げてきませんでした。
ひょっとして瞑想についてお馴染みでない方もいるかもしれません。瞑想とはなんでしょうか。

めい‐そう【瞑想・冥想】
目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。「―にふける」[広辞苑]

…う〜ん(笑)。辞書による説明だとこういう風になっちゃいますよね。

瞑想と言っても、そのやり方は色々とあります。
私も様々な瞑想法を試してきました。中には極度の集中を必要とされるものもあって(それって瞑想かぁ?(笑))終わった後にクタクタになってる、なんてこともありました。
それでも「これを習得すれば願望実現が待っている。そのためには頑張るぞ!」と一生懸命でした。今思えば懐かしいです。

それぞれの瞑想法にはそれなりの効果や利点があると思います。でも高度な瞑想法を独学で行っていったとき、途中で間違った方向に進んでしまう恐れもあります。こうなると面倒ですよね。そこで適切に修正してくれる指導者がいないわけですから。しかも取り組んでいるのは「自己の内面の深い部分」という、本来「触らぬ神に祟り無し」の領域です(笑)。仏教でも「阿頼耶識(あらやしき:平たく言うと潜在意識)」について、ここを利用することは現世利益を得ること(いわゆる願望実現)についても非常に効果的であることは知られていました。しかし意識の根底をうかつにいじくることの危険性も同時に知っていたわけです。

…さて、前置きが長くなりました。
今日ご紹介するのは「とってもシンプルな瞑想法」です。
上に書いたことは忘れて(笑)早速実践といきましょう。

108式瞑想法

「煩悩式瞑想法」って、なんか変ですよね(笑)。
では、やり方を説明します。

静かな環境を用意します。
グループでやっても良いですが、そこまで大層なものでもありません(笑)。簡単なので一人の方がやりやすいでしょう。
朝起きたときとか、夜眠る前の時間を利用すると良いです。一人で静かになりやすい時間だからです。

なるべくリラックスできる服装で行ってください。この面でもパジャマとかで行える起きがけや就寝前は最適です。でも、服装についてはそこまで神経質になる必要はありません。Gパンを履いていても、ベルトをちょっと緩めるとリラックスできます。

次に、あぐらをかいて座ります。あぐらが難しければ、椅子に座るのでも構いません。それも難しければ寝っ転がっても良いですよ。三分から五分間程度、楽にその姿勢を保てるのなら姿勢はどんなでも良いです。ふかふかのソファーに深く腰掛けるのでも、コンクリートの上であぐらをかくのでも(笑)、要はあなたが楽な姿勢を保てるならそれで良いのです。

背筋は自然にまっすぐ伸ばせた方が良いでしょう。でも、これも必須項目ではありません。無理のない姿勢でリラックスできればOKです。

環境が整ったら、いよいよ瞑想開始です。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸します。

「い〜ち〜、に〜い〜、さ〜ん〜、し〜い〜…」

ゆっくりと心で数を数えながら息を吐きます。吐くのは鼻からでも口からでも構いません。
苦しくなるほど長くやる必要はありません。無理のない範囲でゆっくりと息を吐きます。心の中で数をカウントしながら。

息を吐いたら、次にちょっとだけ呼吸を止めます。これも無理のない範囲で数をカウントしながら行います。一つか二つ、数を数えるくらいの間で良いでしょう。
長く止めたから効果があるわけでもありません。苦しくなるほど止めないでください。どうしても苦しければ、ほんの一瞬止めるだけでも良いし、無理なら止める部分は省いても構いません。

次に、ゆっくりと息を吸います。これも鼻からでも口からでも構いません。息を吐いたときと同じだけカウントしながら、ゆっくりと吸い込みます。
吐くのと同じカウント数で吸い込んだら、またちょっとだけ息を止めます。さっき止めたのと同じだけ、苦しくない範囲で止めてください。

今度は息を吐きます。最初のサイクルに戻ったわけです。これを三分間から五分間行ってください。慣れてきたら十分間くらいすぐ経ってしまいます。でも、無理して長くやる必要はありません。気持ちよい範囲で行ったら、大きく伸びをして瞑想を終了します。眠るなり起きて活動するなりして通常の生活を続けてください。

なんのために行うのか

ここでちょっとしたコツを書いておきます。
瞑想中は数をカウントしながら呼吸に意識を集中します。
やってみると分かりますが、心の中で数を数えながら規則正しく呼吸をしていると、思考が働きにくくなり、勝手に呼吸だけに集中している状態になります。
あと、呼吸は腹式呼吸で行うと良いです。お腹の下の方を、吸うときは膨らませ、吐くときは凹ませる。慣れてくると楽に行えます。
二、三分、数をカウントしながら呼吸に集中したら、後はカウントを止めて普通に呼吸するのも良いです。リラックス感は持続しているでしょう。

ところで、この瞑想法の利点はなんでしょうか?
逆に聞きますが、あなたはこれを行うことによってどんな利点があると思いますか?

「願望がみるみる叶うようになった!」
「いくらダイエットしても痩せなかったのに、気がついたら理想体重になっていた!」
「長年患っていた持病が、いつの間にか全快していた!」
「憧れていたあの人と付き合えるようになった!」
「宝くじに当たった!!」

…あると思います(笑)。ないとは言いません。でも、そんなことが目的なのではありません。
この瞑想法は、あなたの願望実現と何ら関係はありません。この二つは頭の中で切り離しておいてください。

「なんだよそれ!それじゃ瞑想している意味なんてないじゃないか!」

本当にそうでしょうか?
瞑想しているとき、あなたはどんな感じがしましたか?
リラックスして、とても安らかな感じがしたのではないでしょうか。
どうしてでしょう?

思考が止んだからです。

この瞑想の利点であり目的は「思考を止めることが出来る」ということです。
あなたが生活している間、ありとあらゆる思考が途切れなく頭の中で渦巻いています。
瞑想というのは、この活動を強制的にストップできる極めて素晴らしいツールなのです。
瞑想しているとき、あなたは安らぎと平和を感じた。思考を止めただけでそれは訪れました。訪れたと言うより、最初からそれはここにあったわけです。思考のせいであなたはそれを感じられなかった。自らの思考で安らぎを感じることを妨害していたわけです。

これが「意識的に不足を支えている」ということの意味です。
あなたがそれを支えるのを止めた途端、元からある安らぎをいとも簡単に経験することが出来た。
これはとてつもなく重大な意味を秘めています。

貴重な経験

あなたが瞑想中に感じた平安。これは別の領域に触れている本当の経験です。
あらゆる条件付けを排除し、直に充足を経験しているという極めて貴重な経験なのです。

私はかつて、現象化をコントロールするために様々な瞑想法に手を出しました。
それを願望実現の手段と考えることで、そこで起きている本当の経験をないがしろにしてきたのです。
こういった本末転倒が我々の中でいくつも起きています。

何かを変えるためにそうするのではなく、そこにある貴重な経験をただするためだけに、瞑想をしてみてください。
コントロールするために瞑想を行うのではなく、直に充足を経験するためにそこに入っていってください。
それは手段ではなく目的です。

あなたは今、ひょっとしたら絶望の淵にいるのかもしれません。
あなたをそこに追い込んでいるものは何なのか。
一息つき、先の手順で瞑想をしてみてください。
ただ規則正しく呼吸をするだけの人になり、ぴたっと思考が止んだとき。
あなたは何を経験していますか?

このとき、絶望や不足を支えていたものの正体が露わになります。
あなたは思わず笑い出してしまうかもしれません。
あなたは絶望も不足も、最初からどこにもなかったという事実に気付くのです。

あなたには最初から充足しかありませんでした。その充足に直に触れ、その事に気付きます。
そして、それだけが唯一の真実なのです。

…ね、瞑想って素晴らしいでしょう?

誰にでも経験できます。是非試してみてください。

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written by 108

1 月 14

ザ・チケットでご紹介したメソッドに「自分自身に問いかける」というのがあります。
このバリエーションは結構あって「私はこの状況を、一体どうやって脱したのだろう?」というのもその一つです。
ザ・チケットではこのメソッドについて「問題が解決した未来の自分から現状を振り返ってください」と書きました。先日の記事「今年一年を振り返る」にも通ずる方法論です。

このメソッドに関してLOAスレッドでこんな質問がありました。
(質問者の方はある現状に苦しみ、そこから逃れたいという願望をお持ちでした)

「どうすればいいでしょうか?メソッドは、どうやってこの苦しい思いがなくなったんだろう?と問いかけています」

この問いかけには一つ問題点があります。
「この苦しい思い」と言った時点で、現状の不足に焦点が当たりやすいという点です。
このためチケットのメソッド2「自分自身に問いかける」では「出来るだけ条件を外してください」と書きました。
「来週までに50万円必要な場合」なら「来週まで」「50万円」という条件を取り外し、最終目的である「安心感」をターゲットにすべきです。したがって適切な問いかけは、

「私はどうやったら、安心できるのだろう?」

未来から振り返る方法なら

「私は一体どうやって、安心できたのだろう?」

ということになります。後は思考を働かせず放っておく、あるいは思い出そうとするというわけです。

重要なポイント

考え方としてはこういうことですが、実はこれが正解とも言い切れません。
仮設男の記事でも触れましたが、人の内面は千差万別、同じ文言によって誰の内面でも同じ作用が起きているとは限らないからです。そのためチケットでは「自分なりのアイデアでアレンジしてください」とお断りを入れています。ポイントさえ押さえていれば、逆に表現はなんだって構わないのです。

そのポイントとは「感情」です。
LOAにおける重要ポイントである「感情」について、ここでもう一回おさらいしておきましょう。

先の質問者の方の例で言えば、

「どうやってこの苦しい思いがなくなったんだろう?」

こう問いかけたとき何を感じているのかが重要になります。

苦しみがなくなった時点の、未来の自分として振り返ることで、感じている感情がその時の「開放感」「安心感」に類するものなら、この問いかけは成功です。その感情を感じているということは、その人は既に「問題の解決した自分」であることが出来ているからです。

しかし感じているのが「早くこの苦しい思いがなくなって欲しい」という感情、つまり「焦燥感」や「苦しい」に類する感情であるなら、この時経験しているものは「不足」です。その人は依然「問題を抱えたままの自分」であり続けている、ということです。

同様に、

「私は一体どうやって、来週までに50万円を手に入れたのだろう?」

このとき感じている感情に注意してください。感じているのが「安心感」なら、この問いかけでも問題ないわけです。逆に「私はどうやって安心できたのだろう?」と問いかけ、感じているのが安心感ではなく恐怖心なら、その人にとってこの文言は適切ではない、ということになります。
大切なのは文言ではなく、そのときあなたがどの地点(状態)にいるのか、ということなのです。

どの未来に移動するのか

未来の自分から振り返る。
このとき鍵になるのは「そのとき自分がどういう状態か」です。
現状を支点に考える限り、どうしても不足に焦点を合わせがちです。
現状と関連なく、問題が解決した未来にパッと身を置いてみる。
その地点の自分なら一体何を感じているだろうか?
想像し、その状態を感じることが出来たなら、あなたは既にその状態になっているのです。
時空を飛び越え、望む自分を経験している、ということです。
あなたの想像力は、それほどまでの無制限な自由を与えられているのです。
意識の上では分かりませんが、このとき既に、その未来と現状とが一直線に結ばれ、如何にして解決したのかというルートも既に知っているのです。
そのとき感じている喜びは、深い部分でそれを認識し、そこから浮かび上がってきている喜びなのです。
そして、それを頻繁に繰り返しているうち…
それまでの現実から、望む現実へと現象化に変化が起きてきます。
でも、あなたはそれに気付きません。あなたが普段注意を払っていないところから変化が起き始めているからです。
エゴの監視が緩いところほど、どんどん変化が起きてきます。
その部分は監視していないことによって結果的に変化を許しているからです。
望む世界への移動は、このようにして起こります。

神という属性

あなたは想像上ならどの未来に行くことも可能です。
そして、そこで経験している感情は実際の感情です。本当の経験と何ら変わりはないのです。
誰しもが持っているその貴重で素晴らしい能力に、現状からの分析によって制限をつけないでください。
あなたはなんにでもなれるし、どんなものでも手に入れられるのです。

「なんにでもなれるし、手に入れられないものはないだって?それじゃまるで神だよ」

こんな風に考えてしまったあなた。実際にそのとおりなのです。
そして「そんなの無理だよ!」と感じてしまったあなたは、そのような定義によって自分の属性を決定しています。それすら自由なのです。
いずれもあなたが神と同質の能力を持っているからこそ、どこまでも可能でどこまでも自由なのです。
これが「神は一切出し惜しみすることなく、全てをあなた方に与えてある」ということの意味です。

迷ったとき、悩んだとき、苦しんだとき。我々全てに備わっている、この「神という属性」を思い出してみてください。
楽に重荷を下ろすことが出来るはずです。

さて「神」について語るとき、大変慎重を要します。
それは各々の中で概念化されており、否応なくそのフィルターを通すことになるからです。
かつてLOAスレでここに踏み込もうとしましたが、撤退しました。まだ早すぎると感じたからです。しかし、いずれは踏み込まざるを得ない領域です。

一つだけ言っておきたいのは「神を概念化せず、感じてください」ということです。

神、死、多世界解釈…。
ザ・チケット続編のキーワードになりそうです。

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written by 108

1 月 06

正確無比なレポート

さて、あなたが毎瞬毎瞬せっせと作成し続けている「現状及び自分に対するレポート」
このレポートはどこに行ってしまうのか。

レポートは即座にデータベース化され、蓄積されていきます。
どこにでしょうか?
それはあなたの内部にです…と言いたいところですが、正確にはそうではありません。
実際には、あなたの内部にそんな蓄積スペースはありません。
あなたはそのレポートを現実という形で外部に蓄積しています。

我々は通常、自分←→外部という形でこの世界を認識していますが、本当はそのような相対的世界ではありません。
あなたが経験していること、あなたの目に見えているものは、全てあなたの内部で起きていることです。
あなたの目に映るものや体験している状況は、あなたの内面の完璧に正確な投影なのです。

つまりあなたにとっての現実というものは、あなたが作り出したフィルムをスクリーンに投射しているようなものだということです。
現実とは、単なる投影結果に過ぎないのです。
「現実の属性は常にニュートラルだ」というのはこういうことです。

ところがあなたは、これに対して即座に採点を始めます。

「ダメだ。こんなのは私の望んでいた結果ではない」
「どうしてこういうときに限って、晴れじゃなくて雨なんだよ」
「なんでこう、うまくいかないのかな」
「思うてたんと違ーう!!(笑い飯:M-1グランプリ2008)」

既に投影として結果が出ているものに対して、更に採点を始めてしまいます。
しかも面白いことに、その採点方式はことごとく「減点法」です。

減点法の特徴は「どれだけ不足しているかを測る」ということです。
内部の完璧な投影である現実に対して「不足」という属性を与えてしまう。
これが間違いの始まりです。

現実とは、あなたの状態を正確に反映しているスクリーンです。
つまりあなたの内面と現実とはイケイケ(行き来が自由な事)で、ひとつながりなのです。
そこに境目はなく、あなたの判定は即座に反映される仕組みになっています。

「ちょっと待って。じゃあ願い事が実現するのにタイムラグがあるのは何故?即座に反映されるのなら、願い事だって即座に叶うはずでしょ」

ごもっとも。願い事は即座に叶っても構わないわけです。
ところがどっこい、あなたの内部はそのようになっていません。

「願い事がそんなに簡単に叶うはずがない。そのためには、ある程度の時間的経過と状況の変化が必要だ」

こんな風になっています。
だから、現実はあなたのその状態を正確に反映し、願い事が実現するまでにちゃんとタイムラグを生じさせてくれるのです。

減点が発生するメカニズム

話を戻しましょう。
何故我々が、自分や現実を「減点法」で採点してしまうのか。
それは「こうあるべき」という理想を持っているからです。
望む「理想」と、現象として現れた「現実」に差異が生じてしまうため、その差異を「不足」として捉えて採点してしまうのです。
その背後には「本来我々は完璧である」という深い認識があります。この認識は間違っていません。
ところが、この現象界には一定の法則というか、ルールがあります。

「内面を一つ残らず正確に反映してしまう」

というルールです。
全ては完璧に起きているのに、一見そのように見えません。しかも「本来は完璧なはずなのに」という想いがあるため、現実に対する認識との間においてギャップが生じます。
このギャップが、我々が自分や現状を減点法で採点してしまう原因となっているのです。

多くの人は「現実が内面の完璧な反映である」ということに、なかなか気づきません。そのため原因を外部に求め、内面と分けて考え出してしまいます。
その時あなたは、もはや現象のリアクション装置と化し、現実を判定し続ける自動化されたマシンとなってしまいます。
エゴの誕生です。
エゴはこの間違った認識が基盤なため、何一つ創造することが出来ないのです。

現実の本当の機能

では、どうしたらいいのか。
まず、認める。
この現実が、あなたの正確な反映であることを認めるのです。
しかもこれは単なる反映結果ですから、これを更に減点法で採点する必要はありません。そんなことは無意味です。
ただし、この反映結果はあることを正確に我々に伝えてくれています。

「あなたの内面はこういう状況ですよ」

ということをです。
これを手がかりに、内面を修正していけばいいのです。

ある出来事があって、あなたは不愉快な想いをした。
それは「あなたが望む状態と内面の状態とが一致していないよ」というサインなのです。
「あなたの望みはこうだけど、内面はこうなってるよ」ということを教えてくれているのです。
そこで不毛な減点法を開始しないで、内面の修正を開始してください。
修正がうまくいっているかどうかは、現実を見れば分かります。
でも現実を見ることにかまけないで、あなた自身の状態の修正に注力してください。

現実とは単なるサインです。

サインに対して、必要以上に重要な意味を持たせないようにしてください。
望むように修正されていけば、現実はあなたが望むように勝手に変化していきます。

「完璧だ」

減点法を止め、絶えずこの認定を行ってください。
あなたが減点法によって不足を支えなければ、そんな幻想は即座に消滅していきます。
金融危機?もちろん消えます。
それを支えたいかどうかも、もちろん自由です。
全ての人が、それぞれの現実を自由に選べるのですから。
あなたにとっての現実を、あなたが自由に変更できない道理などないのです。

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written by 108

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