久しぶりの更新です。
ブログも、2chのLOAスレもずいぶんとご無沙汰してしまいました。
スレでのご質問に関しては、またボチボチとレスしていこうと思っています。
※私が不在の間に、LOAスレは重複して乱立状態になっているようです。
まるで細胞分裂したかのようで「どのスレでレスしたらいいのだ?」と、ちょっと混乱しています(笑)。
また、このブログのコメント欄でもいくつかご質問を頂いているのですが、前にもお伝えしたとおり、当面ブログでの質疑応答はやらないというスタンスなので、回答は保留させてい頂いてます。
(本当はブログの分だけでもレスしたいんですよ。でも、これも以前書いたように、それをやり始めると止まらなくなってしまうので(笑)敢えて制限しています。失礼とは存じますが、どうぞご容赦ください)
ただブログでもLOAスレでも、ご質問に対する回答をあまり長い間保留しているのはよくないとは思っています。質問者の方はそのタイミングで回答が欲しいわけだから、私が一ヶ月後にレスしたとしても、その回答がその方の現状にはもはや一致していないことも充分あり得るわけです。
これについては、ちょっと考えていることがあります。近いうちにアナウンスできると思いますので、もうちょっとお持ちください。
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さて、本題に入ります。
LOAスレをちらっと覗いたんですが、「ザ・チケット」第七章についてちょっと誤解している方がいるようです。それは、こんな内容の書き込みでした。
「第七章の目的は願望消滅だ。エゴが消滅すれば願望など湧いてこない。願望がなければ、それによって苦しむこともなくなる。願望の『実現』『不実現』という状態について頭を煩わせることもなくなる。そもそも別の領域では願望は既に実現しているのだから、たとえそれが(現象として)見えなくても、そのことに満足してさえいればよいのだ」
(108注:複数の方による一連のやり取りから、主張となる部分を再構成しました)
これは甚だしく大きな誤解です。
「ザ・チケット」の目的は「願望の消滅」ではありません。
もちろん「願望の消滅」が願望である方なら、その願望を叶えて頂ければ幸いです。
しかし「願望をなくせば幸せがやってくる」と思っているなら、それはとんでもない勘違いです。
願望はエゴではない
この間違った認識を修正するため、じっくりと考えていきましょう、
まず、この誤りの大元には「願望はエゴである」という誤解があります。
願望はエゴから発したものなのだから(実現しようがしまいが)それは不調和しかもたらさない、という思い込みです。
キッパリと言っておきますが、願望は決してエゴなどではありません。
願望の実現を邪魔しているものがエゴなのです。
以前「破壊的願望」で書いたように、願望そのものに良い悪いなどないのです。
あなたがあるひとつの願望を持ったとき、それがどんなものであれ、それはあなたの生命表現です。
「こうしたい」と思ったとき、それはあなたが命を表現しようとしている、ということです。
ザ・チケット第一章でも取り上げた「水を飲む」という事象について考えてみましょう。
あなたが「水が飲みたい!」と思ったとき、一つの願望が発生したわけです。
その事についてあなたは「それはとても良い願望だ!」とか「そんな身勝手な願望は許されない!」などと考えるでしょうか。
水が飲みたい。この願望はあなたの生命表現です。
そしてあなたは、実際に水を飲みに台所に行きます。なぜか?生きているからです。
あなたにとって「水を飲みたい」という願望を抱き、それを実現するということは生命活動として至極当然のことなのです。
「願望を持ってはいけない」ということは「これもエゴの仕業であるから止めてしまえ!」と言っているようなものです。
あなたが「お金が欲しい!」と思ったとします。この願望もあなたの生命表現です。
あなたが「あの男性と恋人になりたい!」と思ったとしても、これもあなたの生命表現です。これを裁こうとしてはいけません。それは単なる生命表現なのです。
ところが「オレオレ詐欺を働いて大金を得よう!」と思ったとき、この願望には余計なものがくっついています。
この人の願望は「大金を得よう!」のはずですが、そこに
「大金を得ることは難しい」
「大金を得るには、何かあくどいことをやらなくてはダメだ」
「オレオレ詐欺というのに、皆よく騙されている」
「つまり、比較的上手く方法のようだ」
「どうせ何やったって上手く行かないのだから、そんな社会のルールを守る必要はない」
「他にもあくどいことをやって非合法に大金を得ながら、何のお咎めもなく楽しくやっている連中だっている」
「自分がそれをしたところで、どうこう言われる筋合いはない」
「このまま破滅するくらいなら、やってみる価値はある」
「リスクはあるが、大金を得るにはこれしかない。やってみよう」
このように、余計な思考と信念がいっぱいくっついています。
これによって「大金を得る」ことに本来何の関連もない「オレオレ詐欺」という条件付けをしてしまうことになります。
この人は「オレオレ詐欺がしたい」わけではないのです。それは願望ではなく、エゴが勝手に思いついて関連づけた「歪んだ条件付け」でしかありません。
同じように「彼の恋人を殺して、代わりに私が彼の恋人になる!」と思ったとします。
この人の願望は「彼と恋人になる」です。ところが、
「彼には既に恋人がいる」
「恋人になるには、彼女の存在が邪魔だ」
「しかも私は、彼女ほどの魅力を持ち合わせていない」
「彼と恋仲になるには、彼女に消えてもらわなくてはならない」
「彼女の方から彼の元を去ることは、現状から考えてあり得そうにない」
「たとえ去ったとしても、すぐまた戻ってくるかもしれない」
「お互いの自由意志に任せていたのでは、私が彼の恋人になれる可能性は著しく低い」
「確実に彼を奪うには、彼女を殺すことが合理的である」
こんな風に、一定方向で働かせた余計な条件付けがいっぱい入っています。
さらにこの願望には、不必要なまでの執着の原因となっている、こんな条件付けもあります。
「私にとって彼以外の存在は、恋人として不適当である」
おまけに、意識の上には上ってきませんが(ほとんどの人が思いも寄らない)こんな矛盾した信念もあります。
「早く彼を得ないと、彼のことをいつまで好きでいられるか分からない」
さて、これらの条件付けを全て取り去ってみると、この人の本当の願望は「素敵な男性と恋仲になりたい」です。
ところがエゴは、様々な狭い歪んだ条件付けによって「本当の願望」とはほど遠い「不幸せ」の方向に願望を再定義してしまっています。結果この人はあらゆる面で「不都合」を経験することになります。
あなたが願望を抱いたとき、途端にエゴの様々な条件付けがくっついてきます。
この条件付けこそが、願望の実現を邪魔しているものなのです。
「思考は邪魔だ」というのはここです。
本来、願望は放っておけば勝手に実現するものなのです。
その意図を働かせれば、行動が必要なら勝手にその行動を取ることになります。
特定の状況が必要なら、勝手にその状況が整い、そこに駒を進めることになります。
思考によるコントロールは不必要なのです。あらゆる条件付けを含めたエゴのそういった働きは、実現を阻害する要素でしかないのです。
元々、願望自体に善し悪しがあるわけではない。それを条件付けて制限してしまい、一定方向のみにコントロールしようとするところから、不調和が始まるのです。
第7章
さて、ここでチケット第7章について考えてみましょう。
第7章では「願望は既に実現しているのだから、その実現についてあれこれ苦労することはない」という主旨のことを書きました。だから必要なのは「それを見る」という単なる意図だけで充分であると。
ところが見たところ現実には何の変化もない。願望が実現している様子を現象として確認できない。こうして袋小路に追い込まれたあなたはこう考えます。
「私には見えない。この現象界では願望の実現を経験することはできないのだ。別の領域で実現されているとしても、それは私の現実とは何の関係もないようだ」
かくして「別の領域」は概念化され、体験の世界から切り離されます。そして現実の苦しみに対する「隠れ蓑」として、一時的なトランキライザーの役目を負わされる羽目になります。
これでは来世信仰と何ら変わりはありません。
「願望の実現という状態はすぐに体験できなくてはいけない。なぜなら、それは既にあるもののはずだから」
これでは第7章がさらなる「条件付け」になっているだけです。障害となっている要因がエゴから別の領域に移っただけなのです。
(実際にはエゴから1ミリたりとも動いていません)
第7章の提案は「そういった条件付け自体が願望の実現や幸せをせき止めているものなのだ。だから、条件付けそのものを即座に止めてしまおう」ということでした。
実際にも、条件付けを止めてしまえばあらゆる形で充足が見えてきます。結果、否応なくそれを経験することとなります。
ところが「条件付け」は我々の習い性となってしまっているため、これを直ちに放棄して充足を経験することが困難な人は多いでしょう。幸せを経験する為に、ほんの少しだけ自分自身の条件付けを解除しておくことができない。
なぜ解除できないのか。そんな未知の領域を完全に信頼して、自分の安全に対する支配権をすっかり明け渡すことなど、到底できないからです。
そんなことをしたらエライ目に遭う。そんなことをしたら身の破滅だ。そんなことをしたら家族が食いっぱぐれる。そんなことをしたら笑いものだ。そんなことをしたら死んでしまう。
エゴはここぞとばかりに非常ベルを鳴らして、それは危険だから止めてしまえと激しく抵抗します。
しかし、この危険は本当は「エゴ自身」にとっての危険です。エゴは自らの活動を維持するために、元々ある実現の状態を経験することをこうやって妨げます。あなたは自分を単なる非力な一生命体に過ぎないと信じ切ってしまっているため、エゴと自分とを同一視しています。だからこそ、このエゴの叫びはあなたにとってとてつもないリアリティを持って迫ってきます。
結果、別の領域は概念化され、あなたにとって体験できる領域から除外されます。
ですが実際のところは、あなた自身がエゴの抵抗でもって強力にせき止めているに過ぎないのです。
別の領域
あなたは思います。
「第7章を自分に適用したい。そして願望が全て実現した領域に一気に移動したい!」
しかし、そうはなりません。どうしてなんだ。別の領域など、どこにもない!
そうです。別の領域などありません。
思い出してください。「別の領域」とは、何に対して「別」なのでしょう?
そうです。エゴです。別の領域とは「エゴとは別の領域」という意味でした。(「ザ・チケット第1章参照」)
「別の領域」という表現は、エゴと対比されたときに初めてその意味を持ちます。
本来あなたはその領域に既にいたわけです。今もそこにいます。
しかしこの世界に生まれ出た瞬間、あなたはこう思い始めました。
「このちっぽけな生命体が私自身なのだ」
エゴの発芽です。
この想いは生きていくうちにどんどん大きくなり、あたかもそれを肯定するかのような現象化によってますます補強されていきました。
本当は、あなたはずっと「別の領域」にいます。今もそうです。
ところがあなたの意識は長い年月をかけ、その「エゴ」というあなたの微細な一側面に強力に集中してしまったため、その事が知覚できなくなってしまいました。
あなたはもはや、エゴと一体化してしまったというわけです。
そしてあなたがエゴと一体化してしまったために、本来のあなたという属性は「別の領域」という、エゴによって分離されたゾーンに隔離されてしまったのです。
本来のあなたの属性は、エゴにとって「別の領域」にあり、活用できない。
ところがエゴをバイパスし、別の領域の属性を垣間見ることがある。
メソッドを実行したとき、手放したとき、諦めた時、純粋に期待したとき…。
いつも起こるとは限りませんが、度々起きているはずです。
この現象はエゴの理解できる範疇を超えているため「なぜだか分からないけど」「あり得ない方向から」という形で起こります。
あなたは色めきだち「ようし、これをフルに活用しよう!」と思います。
エゴの領域から—。
分かりますか?それはエゴによってコントロールできる類のものではない。
「エゴは何一つ創造できない」ということを思い出してみてください。
再びエゴのコントロールボックスに着座しちゃ、ダメなんです。
せっかく本当のあなたを知覚できたのに、そんなもったいないことをしちゃいけません。
「そんなこと言われても、どうしたって、そうなっちゃうよ!」
分かります。このジレンマは多くの人が経験していることです。
ところがこの習性は、ちょっとした気の持ちようで簡単に修正できます。
現実を再定義する
例えば、今日一日を振り返ってみましょう。
あなたは朝起きて会社に行き、仕事をして家に帰ってきた。そう仮定します。
この間の出来事を想起してみます。
楽しいこと、嫌なこと、色々なことがあったでしょう。
あなたはポイントポイントでそれらを既に定義済みです。しかし敢えてこれらを定義し直してみます。
・朝電車に乗り遅れそうになった
→朝、電車に乗り遅れそうだったが間に合った
・通勤途中、車に泥をかけられた
→車に泥をかけられたが、轢かれずに済んだ
・仕事でミスをして、上司にこっぴどく怒られた
→ミスをしたが、上司に怒られただけで済んだ。私は怒らなくて済んだ。周りに同情され、仲間の愛を感じることができた
・仕事の後の飲み会に誘われなかった
→飲み会に行かなかったので、その分お金が浮いた。このお金で何を買おう?
・残業したので楽しみにしていたテレビを見損なった
→テレビを見ることより残業を選んだ。お陰で残業代を稼ぐことができた。このお金で何を買おう?見逃した番組は、そのうち見ることができるだろう。そういえば、お気に入りの同僚もあの番組を楽しみにしている。ひょっとしたら録画しているかもしれない。録画DVDを貸してくれないか、聞いてみよう。お近づきになるいい口実だ。もしかしたら「それなら部屋で一緒に見よう」ということになるかもしれない。その時は残業代分のお金で何か気の利いた物でも買っていこう。これはワクワクしてきたぞ!
どうでしょうか?
「馬鹿馬鹿しい!お馴染みのポジティブ思考かよ!」
と思われたかもしれません。
確かにこれらは、あなたが経験した同じ事象を、単に都合良く解釈して再定義しただけです。
ただ着眼点を変えてみただけなのです。そのために指一本動かしていません。
しかしながら、見えてきたもの、感じられるものは明らかに充足の方向性です。
こう考える癖をつけていると、常に目の前の「不足」ではなく「充足」を見ようとしていることになります。
こうやって、エゴから見たら現象化に何ら特別な変化が起きていなくても、あなたは度々充足を感じられるようになっていきます。
そしてその時、あなたは実際に別の領域の充足を経験しているのです。
そしてこの「再定義」の習慣は、単なる「現象の好都合的解釈」ということに留まりません。
これによって、これまでエゴによって巧みに隠蔽されてきた「実際の幸せ」に対するベールが、どんどんはがれ落ちていきます。
あなたがどうあってもこの態度を撤回せず、常に充足に着眼し続けていると…
もはや再定義の必要のない完全な充足の状態を、実際の物理現象として経験することになります。
気がつけば、あなたの視点は180度移動しています。
不足に向いていたものが、充足に向き直ったのです。
そこには充足しかありません。でも、もしかしたら…
あなたは振り返ってみます。ところが、そこにも充足しかありません。
不足はどこにも見えません。そんなものは存在していなかったのです。
あなたはすでに別の領域にいたことに気付きます。
いや、別の領域という言い方は適切ではありません。
エゴはあなたではなく、あなたの微細な一部分に過ぎないことに気付いたとき、それは統合されてあなたは全体となっているのです。
そしてそれは、最初からずっとそのままで決して変わることがなかった、あなたの本来の属性であることに気付くのです。
簡単なことです。今から始めてください。
そして撤回しなければ、それは自ずと見えてきます。
それがあることを知っていれば、それは見えないことなどあり得ないのです。
それでもエゴが囁いてきたら、
「それも良いかもな。でも、俺はこっちを見るよ。もう決めたんだ」
そう軽やかに言って、態度を貫いてください。それだけで良いのです。
それが「意図を持って選択する」ということです。
あなたは本当は、既に溢れんばかりの充足に今、包み込まれているのです。
「別の領域」とは、どこか違う場所に存在している、あなたとは別の特殊な領域などではありませんでした。
それはあなた自身であり、実際には、あなたはずっとそこにいるのです。
written by 108