4 月 04

出ました。
DEBUG2です。

DEBUG2

ご購入はこちらからどうぞ!

DEBUGには「裏DEBUG」という姉妹版がありましたが、今度の「DEBUG2」は正真正銘の正当な続編です。

DEBUGでご提案した「主へのリクエスト」は、多くの方にとって大変な抵抗があって、中々実行できなかったのではないかと思います。
どうやったらそれが実行でき、無限大の充足に与ることが出来るのか…
今回の「DEBUG2」には、その答えが書いてあります。

一言でいえば、

「もう不正プログラムがどうとか、気にしなくて良いよ」

という内容です。
(不思議と裏DEBUGにも繋がっています)

前作のDEBUGは、ちょっとばかり深刻で重い内容だったかもしれません。それもテーマ上やむを得なかったんですが…。
今回のDEBUG2には、それほどの深刻さはありません。
むしろ快く解放されるような内容だと思います。
いたずらに冗長にならず、無駄なく収まったかなという感じです。

ハッキリ言って自信作です。
ご感想をお待ちしています!

written by 108

3 月 12

早いもので震災から一年が経ちました。
あの災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

私はよく「死はない」と言います。
しかし実際に親しい方の死を前にすれば、それを概念として知ったところでなんの慰めにもならないとも思います。
それでも私は敢えて言いたいと思います。

「死はない」と。

存在はなくなったりすることが決して出来ません。
だから、亡くなったあの人もどの人も実際には生きている。
たとえ、今のあなたがそれを知覚できないとしてもです。

だから生の方を向いてください。
そしてその方向に歩んでいってください。
最初はゆっくりでも構いません。
その先にあなたの生もあの人の生もあるのです。

全ての方々の幸せを祈っています。
あなたは大丈夫です。

written by 108

11 月 30

寒くなってきたところでホットなニュースです。
なんと新刊が出来上がりました。

タイトルはパラレルです。

パラレル

ご購入はこちらへどうぞ。

タイトルどおり、並行世界、ホログラフィック・ワールドについての本です。
これはブログでやろうかとも考えていたんですが、内容が内容だけに、ものすごい分量になってしまいます。
それだととても終わりそうにもないので、本としてまとめていくことにしました。
今回のは、いわば「序章」みたいなものなんですが、それでも結構ディープな入門編になったかもしれません。

今回は特に「死」について、かなりの分量を割きました。

「パラレルワールドの話に、どうして死が関係してくるの?」

と感じるかもですが、無関係に思えて、実はこの二つは密接に結びついています。
特に大震災以降は「是非とも死について語ってくれ」というご要望をたくさん頂いていたんですが、そのリクエストにもお応えする形になっています。
死については、今後もパラレルシリーズの中で多世界解釈と絡めて扱っていきたいと思ってます。

今度のパラレルは、DEBUGや裏DEBUGとは文体をまた変えてあります。
分かりやすく伝えるにはどういった形式が良いのかな…と模索してたどり着いた形です。

で、たどり着いたらなんのことはない、お馴染みの質疑応答形式だったんですけどね(笑)。

でも、楽しく読める形にはなったと思います。
内容もこれまでの著作の中でもっとも娯楽性が高いと思います。
どうぞお楽しみください。

ご感想もお待ちしています!

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written by 108

9 月 04
裏DEBUGカバー

裏DEBUGはお読み頂けたでしょうか?

様々なご感想・ご意見があると思います。是非お寄せください。

さて、この「裏DEBUG」ですが、私のこれまでの著作の中で、ある意味もっとも実践的な内容になっています。
それもそのはず、「裏DEBUG」でご紹介した方法は、私自身が活用してもっとも効果を体感できた方法だからです。

裏DEBUGを一言でいうと「自らの至福に従え」ということです。

この考え方は新しいものでも何でもありません。古くからたくさんの先人が提唱して勧めてきた極めてスタンダードな方法です。にも関わらず、いつも脇に追いやられて蔑ろにされてきました。

実践対効果が極めて高いにも関わらずです。

裏DEBUGのやり方は、あなた自身と幸せとを行動で直結させる方法です。ですから実践した時点で即効果が得られるのは当たり前なのです。
にも関わらず、実践に対して我々はついつい二の足を踏んでしまいます。

「それは最優先させるようなことじゃないよ」

というように。

そうやって自分の幸せを絶えず後回しにしている限り、あなたと幸せとの間には、絶えず一定の距離や時間的感覚が設けられてしまいます。幸せになるために取るべきプロセスが延々と生成され続けるわけです。

この姿勢を自らの意志で解除しない限り、あなたはいつまで経っても不満や不足の蔓延る現実を体験し続けることになる。

それをもう止めましょう、ということをチケットでもDEBUGでも質疑応答でも板チケでもず〜っと言い続けてきました。
方法論やアプローチは違えど、私が提案してきたのはこの一点のみです。

ノーサイドにしましょう、もう(by 某国総理大臣)。

あなたが今現在幸せでないとしたら、あなたは自分自身の幸せに躊躇しているんです。
小さなことでも良いから、あなたが「イイ!」と感じたことを、臆することなく行動に移しましょう。
それによって、あなたが自分の幸せに躊躇する姿勢を少しずつでもぶち壊していくんです。
まずはそのフォームを取ることです。行動を通してです。

実に簡単です。ぜひお試しください。

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written by 108

7 月 28

コメント欄のご質問も溜まってきている状況ですが…
DEBUG続編が完成しました!

「裏DEBUG」です!

裏DEBUGカバー

続編であって続編ではないような作品です。
むしろDEBUGとは相反するような内容という印象を受けるかと思います。

前作ほど重い内容ではありません。
今度は比較的スラスラと読めるはずです(笑)。
装幀と同じように、明るく前向きになれる内容です。

ご購入はこちらへどうぞ。

今回は願望実現ということを主軸に書きました。
ちょっと仮設男テイストかもしれません。
ある意味、原点回帰です。

「悟りとかどうでも良いんだよ!幸せになりたいんだ!」

という方にはうってつけの内容だと思います。

でも本当にうってつけなのは、悟りを求めている方かも…。

DEBUG共々、感想をお待ちしています。
まずはご挨拶まで!

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written by 108

3 月 18

目の前では非常に厳しい状況が続いているように見えます。
途方もない困難が、あなたやあなたの親しい人に降りかかっているように見えます。

この恐怖に飲み込まれないで。
この不安に権限を明け渡さないで。

あなたを怖がらせるどんなことも「まやかし」です。
実際には存在していません。
これだけを根拠に、本当は何一つ起きていないあなたの中心、静寂で平穏な中心点に留まってください。

具体的には瞑想をしてください。
数をゆっくり数えながら規則正しく呼吸し、しばらくのあいだそれに集中します。

静寂が訪れたなら、あなたの思考は治まっている。
現実と感じているものとは無関係に、絶対的な静寂と安心感を感じられていることに気付くはず。
そうしたら、しばらくのあいだそこに留まってみてください。

瞑想が終わって現実に戻ってきたあなたには、恐ろしい状況が依然として目の前に展開していると見えるかもしれない。

でもそれに権限を明け渡さないでください。
先ほど実感した「静寂で絶対的な安心感」があなたの中に存在していることを思い出して。
目の前の状況とは無関係に、あなたの中心点を常にそこにおいてください。

恐れを感じても構わない。
思考に翻弄されても構わない。
でも、あなたの中心点だけは絶対にそこから動かさないでください。
1ミリたりとも。

不安を解消するために効果的なことは、行動することです。
なんでも良いから、行動を通して実行してみてください。
不安感という深いところから来るエネルギーを、効率よく解放することが出来ます。

「そんなことをする精神的余裕はない」という方は、せめてその状況から逃げないで。
その恐怖心をしっかりと受け止めてください。
あなたがその恐怖に対して敢然と向き合っているとき、あなたは恐怖より上にいるのです。
すなわち、あなたは恐怖や困難から解放される瀬戸際に立っているということになる。

恐怖心と闘わないで。恐怖心から逃げないで。
向き合ってください。
向き合うということは受け容れるということです。
受け容れることでそれは消え去るのです。
受け容れるということは愛だからです。
愛は全てを越えるのです。
なぜなら、それは神だからです。

あなたは愛です。
実際にはそれしかありません。

☆今回の地震被害に対して、チケットの売り上げから随時寄付を行っていきます。
また「神の~」シリーズでお馴染みのインテグレイテッド・インフォ様も、売上から寄付を行ってくれています。

http://kamisamano.info/wdp/archives/421

また108は、緊急に新しい書籍の発行を計画しています。
この書籍の売上から優先的に随時寄付を行う予定です。
チケット続編ではありませんが、シリーズ・ザ・チケットといった感じのものになると思います。
インテグレイテッド・インフォ様経由で販売出来るよう、現在調整中です。
(理由は販売から寄付までの時間を大幅に短縮できるからです)
販売が決定しましたらこちらのブログでもご報告いたします。

よろしくお願いします。

written by 108

3 月 13

被害に遭われた方に対して心からお見舞い申し上げます。
皆様のご無事と安全とをお祈りしております。

当ブログ読者の方も、どうぞ愛を送ってください。
そしてご自身の痛んだ心をなによりも大切に慈しんでください。

あなたは愛です。愛しかありません。

written by 108

2 月 02

…さて、

「願望実現に時間は関係ない」
「それは既にある」
「だから今すぐに直結すればいい」

いきなりこう言われても、じゃあどうやって直結したらいいのかとなると、イマイチよく分かりません。

この「どうやって」の部分こそが問題なわけで、皆それが難しいから色々と手を尽くしているわけです。
そしてますます出口のない迷路にはまり込んでしまう。

実はこれについては「ザ・チケット」の第7章で既に回答しています。

「捜す限り、見つからない」

「捜す」ということは「ここにはない」ということを表明しているのと同じことです。
もし「ここにある」ということであれば「捜す」というプロセスは存在しません。

上に書いた二行について、よ~く熟考してください。
(出来れば何度も何度も読み返してください)

では、もしそれが「ここにある」としたら、あなたはどうするでしょうか。

あなたはそれを手に取ります。
それで完了です。
これが直結です。

これだけのことです。
あなたが「ない」という前提で探し回るから、ますますそこから遠ざかるのです。


「虚偽の前提は虚偽の結果しかもたらさない」
というのはこういうことです。

「それはない」という虚偽の前提を採用するから「それはない」という虚偽の結果がもたらされる。
要するに前提も結果もひっくるめて、全てがでたらめだということです。

この「虚偽の前提」を採用している人にとって、直結は難しいはずです。
前提が間違っているのだから、直結はウルトラC(古!)級のスーパーテクニックに思えてしまうかもしれません。
採用している前提が違うため、その人にとっては「あり得ない不可能なことを実行する」ような印象で捉えられてしまうのです。

これは、前を向いたまま強引に首を180度ねじ曲げて後ろを見るようなことをしているわけです。

だから「これは難しいぞ」「そんなの無理だよ!」となってしまうわけです。

ところがこれは難しいことでもなんでもありません。
あなたが身体の向きを180度回転させてやれば良いだけのことなのです。
そうすれば首をねじ曲げなくてもそれは勝手に目の前に見えてきます。

これが最近よく言っている「立ち位置を変える」ということです。
そのために必要なことは?「立ち位置を変える」ことだけです。
いたってシンプルです。

これを「立ち位置を変えるためには?」と考え出すと、もういけません。
「立ち位置を変える」という本来「単なる実行プロセス」であることが、とてつもない困難なチャレンジとして設定されてしまいます。
またしても「虚偽の前提」の罠に落ちてしまうわけです。

立ち位置を変えるためには?
立ち位置を変えればいい。

それでオシマイです。
残念かもしれませんが(笑)、それだけのことなのです。

◆後付の世界

直結とはこれほどシンプルな話なんですが、従来の思考システムに慣れ親しんでいる我々にとって、これは逆に難しい。
あらゆることに対して「それはない」「できない」という前提でスタートするのが慣わしとなってしまっているからです。

あなたが何らかの願望を抱いたとき、まず「それはない」というように前提をセットしてしまっています。

無意識にです。

そして「それはない」「できない」と考えたとき、その理由や根拠は無数に出てきます。
「それはできない。なぜなら…」という形で思考がスタートしてしまうからです。
ですがその理由は、今あなたがそう考えたことによって「今」創造されているのです。

厳密に言うと創造さえされていません。

それはあくまで頭の中で作りだした想定であって、実在するものではないのです。
それらは、あなたが「できない」「それはない」と設定したため、それに付随して発生した単なる連鎖思考に過ぎないのです。
ところがあなたはそれを「絶対的な真実」として支え、もはやそこからの発想しかできなくなる。

そりゃそうですよね。前提が「できない」「ない」なんですから。全てはそれを支えるようにしかなりません。
あなたが最初の段階で間違った方を選ぶから、そんなややこしいことになってしまうのです。
最初に立った場所がハナから間違っていたわけです。

では、お馴染みの実験をしてみましょう。
今から台所に行って、水を一杯飲んできてください。

…できましたか?
実行していない人がほとんどでしょうが(笑)、実行した前提で話を進めます。

あなたはどうして水を飲むことができたのでしょう?

あなたがそれを「できないこと」だとは思わなかったからです。

そして台所に水が「ない」とは思わなかったからです。

実際に台所に行って蛇口をひねれば…あるいは冷蔵庫からペットボトルを取り出せば、水はそこにありましたよね?
それをコップに注ぎ、あるいは直接口に注いで水を飲むことができましたよね?

…水を口から喉、喉から食道、食道から胃へと次々に流し込むことに成功しましたよね?(笑)

それを決して不可能なことだとは思わなかったですよね?

だから成功したのです。

考え方次第では「とても実行不可能で成功が困難な目標」になり得たかもしれない、そのミッションをです。
実際に台所に行けば、蛇口も冷蔵庫もペットボトルもコップも全てあったでしょう?

あなたが「ある」と思ったからです。
別の言い方をすれば「あなたはそれがあることを知っていた」。
だからあったのです。
台所も蛇口も冷蔵庫もペットボトルもコップも。

ですが実際には、それらはあなたが「ある」と考えたから存在したものなのです。
必要な要素は全てあなたが創り出したものに過ぎないのです。
あなたが「水を飲む」という結果に直結したため、後の要素はそれに伴って生成されたものなのです。

「いやいや、あの冷蔵庫は10年も前から台所にあるよ」
「ペットボトルの水は、間違いなく昨日コンビニで買ってきたものだ」
「台所は私が生まれた時からずっとあったよ」

あなたはそう考えるでしょう。
でも本当にそうですか?
どんなもっともらしい証拠を提示したところで、その証拠やそれにまつわる記憶や歴史を、あなたが「今」生成しているのではないと言い切れますか?

なるほど、あなたは確かに水を飲みました。
では、目を閉じてそのプロセスを振り返ってみましょう。
部屋を出て台所まで歩いていき、戸棚からコップを取り出し、蛇口をひねり、あるいは冷蔵庫からペットボトルを取り出し、キャップを開け、コップに水を注ぎ、それを口に持っていき…。

おわかりでしょうか。

台所も蛇口も冷蔵庫もコップも水も、既にあなたの意識の中にしかありません。
もう一度台所に行って、再びそれらの存在を確認することはできるでしょう。
ところがその確認も、あなたの内部で行われていることに過ぎません。
あなたがあなたと関係なく、あなたの外部でそれらの経験をすることは不可能です。
つまり、全てはあなたの内部で起きている意識経験に過ぎないのです。

そして全てがあなたの内部で起きている意識経験に過ぎないのであれば…
どんな経験をするかは全てあなた次第ということになります。
そして実際にも、あなたはそのとおりにしているのです。

(つづく)

written by 108

8 月 04

私達は現実世界において「原因と結果」という事柄を「時間」という直線的な軸にしたがって経験しています。

…そう信じています。

ですが、夢の中でのあれほど一貫性のないバラバラな経験が、目覚めの一瞬で即座に時間線に沿った物語として精妙に組み立てられているのなら、「現実世界は違うよ」とは言い切れないのではないでしょうか。

たとえば、あなたが台所に行って水を一杯飲んだとする。

あなたは時間の流れに沿って台所まで歩いていき、食器棚からコップを取り出し、水道の蛇口をひねって水をコップに汲み、それを喉に流し込んで水を飲んだ。

そう考えています。

でも、本当にそうでしょうか?

本当は「水を飲もう」というアイデアを思いついた瞬間、既に水を飲んでいたのではないのですか?

あなたが台所まで歩いていったり、コップを取り出したり、蛇口をひねったり、コップに水を注いだりしたというのは…

あなたが「水を飲んだ」という事実をもっともらしく裏付けるために、後からつけ加えたものなのではないですか?

それを仮想の時間線に沿ってつなぎ合わせ、さも納得がいくようにつじつまを合わせ、瞬時に組み立て直して解釈しているだけなのではないですか?

つまり実際には時間は存在せず「結果」しかなく、原因やプロセスについては、つじつまを合わせるために「後付け」しているだけなのではないですか?

それを認識上で時間線に沿って並べ替え、時間の信念どおりに解釈し直しているだけなのでは?

つまり実際には、

「原因」→「プロセス」→「結果」

ではなく、

「結果」→「プロセス(錯覚)・原因(錯覚)」

ではないのか、ということです。

もしこのアイデアが本当だとしたら、ACIMやホ・オポノポノの「全ては既に終了(完了)している」という主張にも合点がいきます。
我々は既に終了していることを仮想の時間線に沿って、一定の速度で(錯覚を交えながら)再生しているだけということになります。

もしこのアイデアが本当だとしたら、予知や第六感による直観も何ら不思議ではなくなります。
それらは既に終了しているのであって、それを時間線に沿って逆転再生しているとしても…そして未だそれを経験していないという「フリ」をしていたとしても、「それは既に終わっていて結末を知っている」という事実は覆らないからです。

もしこのアイデアが本当だとしたら、アカシックレコードが存在しているとしてもおかしくありません。
むしろ存在していないとおかしい。
ただしそのアカシックレコードは、無限のバージョンをすべて網羅する形で記述されていることになる。

もしこのアイデアが本当だとしたら、「現実は幻想である」という主張も説得力を持ってきます。
実際には結果しかなく、原因やプロセスは単に「つじつまが合うように」我々自身が捏造しているだけということになるからです。

そして、もしこのアイデアが本当だとしたら…

あなたは願望を実現するために、何もする必要はないということになる。
結果しかないのだから、あなたは単にその結果を選択するだけです。

それで完了です。

そのために必要と思われる、どんな物理的変化も時間経過も、信念の変更もクレンジングも現実的努力も、一切不要ということになります。

それらはつじつま合わせの単なる「後付け」に過ぎないのです。
あなたが結果を選択しさえすれば、それらのプロセスは(あなたにとって必要なら)あなたが納得する形で後から生成されるでしょう。
そして、それらをちゃんと時間という信念に合致する形で経験する(と錯覚する)ことになる。

わかりますか。

もしこれが本当かと思えば、あなたにとって制限はなくなる。

実現を妨げるどんな要因も消え失せる。

結果しかないのだから、あなたはそれを選ぶだけで良くなる。

文字通り自由自在です。

そうしたら、この世界には充足しかないということが分かる。

そして、あなたを苦しめてきた「不足」という仮想概念は消滅するのです。

これが直結です。

直結とは「あいだを隔てないで直接に結びつくこと(広辞苑)」です。
つまり「直に」「結果である」ということです。

直結メソッドとは、

「直に結果であれ」

という実現状態そのものなのです。

これまでは様々な仮想概念や信念を用いて、あなたの意識は結果から分け隔てられていました。
時間、因果、物理的変化、距離、誰かの意向、過去の記憶、自らが自分に課してきた属性…

どれもこれも、あなたが今すぐに望むあなたで「在る」ことを、妨害してきたまやかしに過ぎなかったということです。
あなたはそれらのアイデアを利用して、直結することに抵抗してきた。
そんな必要は何ひとつなかったわけです。

だから、

「今すぐに叶えてください」

「たった今、そうなってください」

「そのあなたは、問題について心配したりしていないでしょ?」

「その過去は、あなたが今、創り出しているんです」

「潔く無視しちゃってください」

「知覚障害を起こしているんです」

「充足を見てください」

「既にそれはあります」

「実際の物理現象としてあるのです」

…というわけです。

(つづく)

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written by 108

7 月 21

あなたは夢をご覧になりますか?
睡眠中に見る、あの「夢」のことです。
きっと見ますよね。私もよく見ます。

夢というのは不思議なもので、突然脈絡のないシーンにいきなり飛んだり、自分の役割やキャラクター、舞台設定まで突然変わったりして、なんとも不条理なものです。

ストーリーもあってないようなものですが、そういった面を除けば、起きているときの現実体験と遜色ないリアルさがあります。夢から覚めるまで、それが夢であるとは気付かないほどの…。

実は私、かつて夢に関連して驚くようなことを経験しました。

それまでの常識が音を立て崩れる…というより、木っ端微塵に吹っ飛ぶような衝撃的な経験でした。

それをこれからお話しします。

私はいつものように夢を見ていました。
(夢の内容についてはこの際どうでもいことですが、セクシーな夢でなかったことは確かです(笑))

いつもの夢と同じように、まるで現実の体験であるかのようにそれを経験していました。
つまり、そこで起こる出来事や場面同士のつながりが「現実ではあり得ない形」であるにせよ、現実と同じようにその夢の世界を体験していたということです。

ここまでは普通でした。
問題はこの後です。

夢を見ていた私は、いつものように目を覚ましたんですが、この時、思いもよらないことに気付きました。

なんと目が覚める寸前に見ていた夢のシーンは、夢のストーリーにおける「ラストシーン」ではなく、なんと「オープニングシーン」だったのです。

これだけでも意味不明なのですが、本当に驚いたのはこの後です。

それに気付いてから目が覚めるまでのほんのわずかな刹那、見ていた夢のそれぞれのシーンを、通常の時系列に沿って瞬時につなぎ合わせている自分を初めて観察したのです。

夢における時系列、つまりストーリーを作っていたのは、目覚める刹那の自分自身でした。

夢の中に時間はなかった。
それを目覚めた後でも時系列に沿ったストーリーとして解釈できるようにしていたのは、目覚める瞬間の自分による「瞬時の並べ替え作業」だったのです。

これによって、夢が何故あれほど不条理なのか理解できました。

本来、夢の中に時間はないのです。だからなんの制限もなく自由自在な経験ができる。
突然別の人物になったり、突然まったく違う場面の経験に移ったり。

ある意味直結です。

この経験を「起きている意識」によって解釈して認識するためには、その形に変換する必要があります。
それが目覚め直前の瞬間的な「時系列に整列」作業なわけです。

これによって夢は見かけ上、時系列に沿ったストーリーを持つことができ、場面のつながり等が(現実視点では)不条理であったとしても、後で反芻したり、人に話して聞かせることの出来る物語として、かろうじて形をなすわけです。

ところが実際の夢にはストーリーなんてない。

そこには直線上に一方向に進む「時間線」なんてものは存在していないのです。

だからこそ、通常の時間認識上では「一番最後」に「一番最初のシーン」を見ていたりする。

私はこのとき、ハタと気付きました。

「…ひょっとしたら、現実世界も同様じゃないのか?」

と。

(つづく)

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written by 108

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