12 月 18
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お久しぶりです!
このところ、すっかり更新がありませんでした。
近々コラムを更新する予定ですので、今しばらくお待ちください
<(_ _)>
さて、でじたる書房での発売以来、ご好評を頂いている「ザ・チケット」ですが、このたびまぐまぐ!マーケットでも取り扱いを開始しました!
※内容は同じものです。ご購入の際、決済方法が若干異なります。
「まだ読んでない!」という方、この機会にいかがでしょうか?
「もう読んだ!」という方も是非!(笑)
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お久しぶりです! このところ、すっかり更新がありませんでした。 近々コラムを更新する予定ですので、今しばらくお待ちください <(_ _)> さて、でじたる書房での発売以来、ご好評を頂いている「ザ・チケット」ですが、このたびまぐまぐ!マーケットでも取り扱いを開始しました! ※内容は同じものです。ご購入の際、決済方法が若干異なります。 「まだ読んでない!」という方、この機会にいかがでしょうか? 「もう読んだ!」という方も是非!(笑)
体験しているのは誰だあなたは劇場で映画を鑑賞しています。 「…オシッコがしたい!」 あなたは少しばかりジュースを飲み過ぎました。ここまで何とか我慢してきましたが、もう限界のようです。 「ちょっとスミマセン」 あなたはイソイソと席を立ち、トイレに駆け込みます。そして… …おめでとうございます。心から安心できる瞬間が訪れました。 さて、用を済ませ手を洗っていると、目の前の鏡に自分の顔が映っています。 「私は映画の中の主人公などではなかった。ただの観客だ」 さっきまで眺めていた劇場の大スクリーンと、目の前の小さな鏡とが重なっていきます。 この、鏡の中に映っている人物は、誰だ。 もう映画の続きなど、どうでも良くなりました。 **************************** あなたは確かにこの現実の主人公かもしれません。 我々は映画を観るとき、作品が自分の趣味・嗜好と合致していて、あらゆる面で良くできていたとき、その作品世界に心から魅了されます。我を忘れ、夢中になってのめり込むのです。 これと同じことが、現実でも起きています。 あなたがオギャーと産声を上げて、この世界に現れたときから映画がスタートしました。 あなたはすっかりこの現実世界の主人公になりきってしまいました。 私は誰だ映画はモンタージュという技法を用いて、様々なショットをつなぎ合わせ、一つのストーリーを構築します。 現実も同じです。 これが体験というものです。 あなたが目の前のものに対して思考を働かせ、解釈を試みます。その結果それはあなたにとってある種の属性を帯び、それに対してあなたは何らかの感情を覚えます。 何かを見たから体験したのではありません。その時何かを感じたことが体験なのです。 ということは、どこかに行き、何かを行い、何かを書き、何かを聞き、何かを喋っているあなたは主人公かもしれませんが、それはあなたではありません。 チケットは無数にある感じている者こそ自分の本当の「主体」だと気づくと、あなたは現実に急きたてられる主人公の役割から解放されます。 逃れられない唯一のストーリーの呪縛から解き放たれます。 「私はどうして、見たくもない映画に必死にのめり込んでいたんだろう」 もうこの作品の続きを見る必要はなさそうです。 頭の中に、面白そうな映画のストーリーが浮かんできました。あなたは楽しくなって、思わずウフフと笑いがこみ上げてきます。 目を上げると、正にそんな面白そうな映画の看板がそこにありました。 「これだ。これにしよう」 あなたはウキウキしながらその劇場に入っていきました。 次の映画に移るこの現実を、逃れられない唯一の現実だと信じ込んでいると、観客の視点を持つことは不可能です。 はっと気が付いて、観客であることを思い出したら、何が起きるのか。 何も起きません。ただ、本来の視点を取り戻すことが出来るようになります。 そこから一歩引いて、主人公である自分を観察する観客の視点を持ってみる。 つまり完全に安全な領域から、全てを見通せているということです。 「志村、うしろうしろ!」 主人公に適切な指示を与えることも可能です(笑)。 気が付けば、あなたは以前とは全く別の映画の中にいます。いつの間にか映写室のフィルムが掛け変わってしまったようです。 最後にもう一つ、とても気が楽になるメッセージをお伝えしましょう。 あなたはその中からお望みのものを、観客の視点でもって単に選ぶだけでよいのです。 簡単でしょう?(笑)
現実って、何?ザ・チケットや、2ちゃんねるのLOAスレッドをお読みの方には、既にお馴染みの考え方かもしれません。 そう、現実とは「幻想」です。 ところが幻想であるはずのこの現実に、我々は絶えず翻弄されています。 これがテレビドラマの中での話であれば、たいした問題ではありません。 しかし厄介なことに、テレビドラマではない「自分の本当の現実」においても様々なドラマが待ち受けています。 この「現実」というドラマは、あなたが生まれてから現在に至るまで、ずっと休むことなく上映され続けています。 現実が我々にとって、好意的に解釈できるものであれば、それもいいでしょう。 「なぜ、これほど苦しい現実を味わう必要があるんだ。もうたくさんだ!」 こう言って鑑賞するのを中止し、劇場を後にすることはできません。それは死を意味するからです。 しかし、この「現実」はあなたにとって唯一のものです。 これは拷問です。もはや罰以外の何物でもありません。 この「現実」というドラマのシナリオライターは、一体どこにいるのでしょう。 主人公という幻想…さて、何となく展開が読めてきた気がしませんか? 「実は、この現実というドラマのシナリオライターはあなた自身です。全ての現実は、あなた自身が創造しているものに他ならないのです。だから、あなたが自分でシナリオを書き換えさえすれば、現実はあなたの望むように展開していくのです」 この方向に論旨を誘導していくのは簡単です。しかし、ザ・チケットでも2chのスレでも、この手の話は嫌というほどしてきました。もうお腹いっぱいだという方も多いと思います。 そこで今回は、ちょっと別の方向に展開を試みてみようと思います。 「現実は、あなたが創造しているものではない。この現実世界に生きる他者やあらゆる現象によって、あなたとは無関係に刻々と生み出されているものだ。 どうでしょうか。 「自分はこの現実の主人公だ」 これは真実のように思えます。あなたは現実を「あなたの観点」でしか捉えることは出来ず、その意味であなたは自動的に主人公という立場を取らざるを得ません。
さて、【結末その3】の前に、彼のこれまでの人生を別の視点から振り返ってみましょう。 彼は確かに心優しい人間でした。 当然です。 「一体何を言ってるの?これほど優しい人間が極悪人なら、他の人たちはどうなるの?」 こんな風に疑問を持たれたあなた。 「何それ?上辺では優しいけど、影では多重人格の冷徹な殺人者だったとか?そんなのズルいよ。読んだ中にはそんな設定は描かれていないじゃないか!」 まあまあ、待ってください。そんな隠し設定は一切ありません。 ズバリ言いましょう。 彼自身にです。 彼は「人の気持ちを大切に考える」と言いながら、一番大切に考えてあげなくてはいけない人物の気持ちを、ずっと踏みにじり続けてきたのです。 彼は最優先すべき人間の心を、ずっとないがしろにしてきたのです。 昔話や童話の中に、よくある共通したステレオタイプの認識があります。 「苦労した人間は報われる」 この言葉面はシンボリックに我々の心の中に刷り込まれ、それによる誤った認識が、いつしか信念となって深く根付いています。 「まったく、あの人は図々しいわねぇ。きっとロクな死に方はしないわ」 相手の心を思いやることは、尊いことです。 「自分が嫌な思いをしても、相手が幸せならそれでいい」 これはステレオタイプの間違った信念に支えられた幻想です。 自分の不幸によって、まるで取引のように他の人が幸せになる、などということは絶対にありません。 「じゃあ自分の欲望のままに、傍若無人に振る舞えばいいのか。そんなことをしたら、世の中はたちまち大混乱に陥ってしまうだろう」 ちょっと待ってください。そんなことは言っていません。 「自分の幸せを最優先に考える」 ということです。これは、 「自分さえ良ければ、他の人はどうなってもいい」 ということではありません。 「自らを一段低いところに起き、他の人を上位概念として優先する」 こういった姿勢は、 「私は、常に他人よりも満たされていない状態を欲している。それが私の望みだ」 と表明していることに等しいのです。 それによって、あなたが心から幸せを感じているのなら問題はありません。 あなたの幸せを犠牲にして、誰かを幸せにすることは出来ません。 では、具体的にどうすればいいのでしょうか。 ここで、彼が物心をついた時分にまで、時間を巻き戻します。 その時、 「自分の気持ちも、大事にしてあげなくてはいけないよ」 誰かの声がしました。 彼はブランコで遊んでいる男の子に近づいていきました。 「ねえ、代わって。僕もブランコで遊ばせて」 意外にも、男の子は気軽にOKしてくれました。 「ありがとう。後でまた、代わってあげるから」 男の子は笑いながら、滑り台の方に元気よく走っていきました。 彼は、楽しそうにブランコをこぎます。 見ると、公園の人たちもなぜか笑顔です。 自分が幸せだと、周りも幸せなんだ。 これは、彼にとって大きな発見でした。 「僕はただ単に、臆病なだけだったんだ」 この時の経験は、これからの彼の人生を素晴らしく彩る、とてつもなく大きな意味を持っていました。 でも、彼はまだ、その事に気づいていません。 大きく揺れる公園の景色の中に、他の子供たちやお母さんたちの姿が映ります。 「あの子、とっても楽しそうね」 その日の公園は、まるで何か言葉に出来ない暖かいものに、包まれているかのようでした。 …えっ?無粋なことをするなですって? 本当は、ちゃんと別の結末があったんですが、まあいいでしょう。 ※私だって優しいぞ!という方、どうぞご協力ください。↓
認めたくありませんが、これは真実です。 優しい人というのは、自分よりも他人を優先します。 優しい人は、あまり自己主張をしません。 「モヤモヤするけど、自分が我慢すれば、この人は傷つかないですむ」 いつも相手の意見に合わせて、自分の主張をグッと押し込めます。 優しい人は、激しい怒りの感情を覚えていても、それを表現することに戸惑いを感じます。 「周りに怒りを表現することは、精神的な暴力のようなものだ。人をそんな目に遭わせてはいけない」 いつも怒りをグッと胸にしまい込んで、にこやかな笑顔で相手に接します。 優しい人は、苦しいときでも周りに助けを求めません。 「苦しむのは自分一人で充分だ。周りを巻き込んではいけない」 いつも苦しみを一人で抱え、頑張って堪え忍びます。 こうして、優しい人は常に傷ついています。 「あの人は、なんだか人当たりが良いねえ」 こんな風に、彼の評価は決して低いわけではありません。 でも、それ止まり。 単に「そういう人」というレッテルを貼ってくれているだけのことです。 未だに恋人もいません。 最近の彼は、どこか寂しげです。 「おかしいな。誰に対しても優しく接してきたはずなのに、なぜ俺は幸せになっていないんだろう。 彼は、神を呪い、怒りに打ち震えます。 優しい人を怒らせると、とても恐ろしいのです。 彼は、この絶望感に折り合いを付けることにしました。 「…仕方がない。自分で選んできた道じゃないか。 さらに年月がたち、彼は年老いていきました。 そして、いよいよその時が来たのです。 果たして、彼はあの世で幸せになったのでしょうか。
「人を見て態度を変えてはいけない」 先生から、学校で道徳の時間に言われるようなことです(笑)。 普通に考えると、これは倫理観に基づいた「公平性」を主張しているようです。 つまり、この言葉が世界にもたらそうとしているのは「秩序」です。 現実社会を見渡してみましょう。 「だって当たり前じゃないか。誰もが自分だけ得をしようと思い、世間は裏切りと不公平のオンパレードだ。そんな世界で自分一人だけ、そんなお気楽な約束事を守っていられないよ!」 全くもって、ごもっともです。 自分がそうしようと思っても、相手から不当に扱われたり、自分より他の人が優先してえこひいきされたり、あらかじめそんな風に扱われていたのでは、とても自分から『誰にも分け隔てなく接しよう』なんて気持ちには、到底なれません。 「そんなことをしても自分が損をするだけだ」 こういう気持ちになって当然です。 …扱うテーマを間違えたでしょうか?(笑) いえ、間違っていません。 「人を見て態度を変えてはいけない」 この言葉は正しいのです。 上に書いたことは、今後一切忘れてくださって結構です。 すなわち「意図した現実を現象化させる」という側面です。 通常、我々は相手によって態度を変えてしまいます。 笑顔で、 「おはよう」 このとき、相手も笑顔で「おはよう」と返してくれれば、 「この人は感じが良い。これからもこの態度で接することにしよう」 こんな風に思います。 でも、相手がブスッとして返事をしてくれなかった場合、 「なんだよ。こっちは愛想を振りまいているというのに。なんだか損した気分だ。偉そうにしやがって。こんな奴には、二度と挨拶なんてしてやるものか」 お気づきでしょうか? あなたが最初に笑顔で「おはよう」と言ったとき、あなたは自分の意図でそれを表現していました。 「それは相手が悪いからだよ」 これは誰もが気づかずに、自然とやってしまっていることです。 相手によって態度を変えたことが問題なのではありません。 結果、あなたは現実に対するリアクション装置に成り下がってしまいます。 我々は、知らず知らずのうちに、こういった訓練を自分に課してきました。 「あの人は、小さいことを全く気にしないな。ちょっと鈍感なんじゃないのか?」 大人物とか大成功した人は、得てしてこういった特性を持っていると思いませんか? 「アイツぁ、大物だよ!」 なんて揶揄されたりしますが、この特性は決して無視できない重要な要素です。 物理的に、本当に図太いんですよ。 まるで小動物のように、ちょっとしたことにビクビクして、意図の出し入れを頻繁に行っている人間からすれば、彼らはそんな風に見えて当然なのです。 あなたは彼らのように「図太い」でしょうか? では、このやっかいな習性を、一体どうやって矯正していったらいいのでしょうか。 答えは簡単です。 「人を見て態度を変えない」 これだけのことです。 誰かが、あなたにどんなリアクションを返してこようが、そんなことは関係ありません。 難しそうですか? では、まずは一つだけ、トレーニングとして始めてみてください。 「笑顔でおはよう」 これを、誰に対しても同じようにやってみる。 例えばテーマを「会社の人には笑顔で挨拶する」と決めたら、仲の良い同僚や上司以外にも、同じようにやってみる。 「そんなことは、私にとって何の関係もない。私は今、意図を撤回しないというトレーニングの最中なのだ」 こんなモチベーションでやってみてください。 「誰に対しても、同じように挨拶しない」 でも構わないわけです。 やってみると分かりますが、 「自分は普段からリアクションに過敏反応して、こんなにもアッサリと意図を引っ込めていたのか!」 これに気づいて愕然とすると思います。 まずは、簡単なテストだと思って気楽に始めてみてください。
先日公開した、コラムの「破壊的願望」ですが、実はこれ、ブログ用に一番最初に書き起こした記事なんですよ。 「壁(その1)」のアップが9月2日なので、それよりもかなり前に書いていたものです。 文字通り、ブログ記事制作No.第一号です(笑)。 その後、「壁」を執筆したときに、 「記事としてはこっちの方が良いかな」 と感じたので、先にアップしていました。 「破壊的願望」は、いずれ時間があったら書き直そうと思って、そのまま手つかずにしていたものです。 ブログ公開はまだ決めていなかった時期だったので、 「公開までに記事をいくつか書きためておき、ストックした中から小出しにしていけばいいかな」 などと、悠長に構えていました(笑)。 結局、ブログ公開に踏み切った時点で、ストックは「壁」の前後編と、最初に書いたまま手つかずの「破壊的願望」の二つだけ。 公開後もストックは増えず、ネタがなくなってしまったため、急遽、制作第一号の「破壊的願望」を引っ張り出してきて掲載したというわけです(笑)。 …というわけで、貴重なストックを全て使い切ってしまいました。 短い間でしたが、当ブログをご愛顧頂き、ありがとうございました(オイオイ…)。 というのは冗談ですが、せっかく楽しみにしていただいている方には、ご迷惑をおかけしています。更新が遅れ気味でゴメンなさい。 記事だけでなく、ブログの構造についてもチューニングしていかないといけないんですが、公開後まだ手つかずの部分がイッパイです。 せっかくトラック・バックにコメントいただいてる部分も、何故か文字化けしてしまってるし…(「投資と読書と日々の日記」さん、スミマセン!直らないのです…)。 どなたか、直し方教えてくださ〜い(>_<)。 …とまあ、こんな感じで、色々不具合もあるブログですが、どうぞ生暖かく見守っていてください。
以前、引き寄せスレで 「どんな願望でも持って構わない」 と書きました。 「それじゃ『銀行強盗や殺人を成功したい』という願望も、持って良いことになるのではないか」 「『世界征服したい』という願望を、叶えることが出来るのか」 少しばかり、子供じみた発想だと思われるかもしれません。 あ、その前にあらかじめ言っておきますが、そんな願望でも「持つこと」自体は問題ありません。 さて、上記のような、いわば「破壊的な願望」を突き詰めてみると、あることが見えてきます。 例えば、 「私は銀行強盗を成功させたい!」 この願望を少し掘り下げてみます。 「どうして銀行強盗を成功させたいの?」 もう出てきました。 「どうして殺人を成功させたいの?」 またしても、すぐに出てきました。 「どうして、社会に裏切られてばっかりで、良い思いをしていないの?」 お分かりでしょうか。 「自分は社会に受け入れられていない」 という観念を保持していました。 「自分は人より劣っている」 このような思いこみが現れてくるでしょう。 「どうして『誰でも良いから』復讐したいの?」 もう少し、シツコク食い下がってみます(笑)。 「どうして、社会に仕返しをするために、殺すのは『誰でも良い』の?」 かなりハッキリしてきました。 この人は、自分と社会とを「分離した、二極の対立構造」として捉えています。 お気づきでしょうか。 この人の求めているものは「愛」なのです。 殺人願望が「社会全体への復讐」ではない場合もあります。 「どうして殺人を成功させたいの?」 この人とその相手とは、継続性のある「特定の傾向を持った関係性」を築いていることが分かります。 このように「破壊的願望」には、その裏に正反対の「本当の願望」が隠れています。 それでもあなたは「破壊的願望」を実現させたいでしょうか? どんな願望でも、持つことは自由です。 最後に、例としてあげたもう一つの破壊的願望である「世界征服」について、掘り下げてみましょう… …ちょっと待ってください。内部から私に問いかけてくる声がします。 「あなたは、どうして『世界征服』が『破壊的願望』だと思うの?」
壁は、自分と対象とを隔てます。 一見当然のように見えるこの活動には、逆に大きな問題点があります。 あなたにとって「現実」と見える外界は、実はあなた自身の内部からの投影です。 それがあなたにとって、好ましいものであっても、そうでないものであってもです。 それら全てをひっくるめて「あなた自身」なのです。 「これは自分にとって好ましいものだ。受け入れよう」 このように取捨選択する度に、あなたは自分自身の一部を切り離しているのです。 あなたの目の前に、ある現実が提示された。 ところが、これに対して、 「好都合だ」 このような判定をした途端、その現実は属性を持ち始めます。 文字通り、自らの一部を切り離してしまったわけです。 あなたは「受け取り拒否」しました。 配達できなかった荷物は、集配所に戻されます。 あなたがある現実を、壁を作ることで受け入れなかったとします。 この活動は、永遠に止むことがありません。 この問題を、どうやって乗り越えたらいいのでしょうか。 答えは単純明快、「壁を作らないこと」です。 どんな現実が目の前に現れたとしても、それに対して壁を作らない。 「これは嫌だ」と感じたら、その感情をも拒否しないで、充分に観察してみる。 荷物は届いたわけです。 あなたが壁を作ってきた対象は、単にその荷物を届けてくれる「配達人」に過ぎなかったのです。 「そんなものいらない。余計なことをしないでくれ」 と、配達人そのものを拒否していたようなことだった、というわけです。 とんだ見当違いでした。 どんな荷物であれ、その配達を依頼したのは「あなた自身」です。 でも、その勘違いは解消されました。 こうすることによって、全ての対象における属性はニュートラルに保たれます。 こうしているとき、あなたの内部で一体何が起きているのでしょう。 あなたは愛を増幅しているのです。 ここで、ひとつ疑問が生まれます。 「壁を作らず、全ての状況を受け入れるということは、現実的な危険を受け入れることになるんじゃないのか?そんなことをしていたら、命がいくつあっても足りないよ!」 この疑問はごもっともです。 目の前に現れた人々に「片っ端から、抱きついてキスしろ」と言っているのではありません。 そういった「生命を維持するための、自動的で本能的な活動」を停止しろ、ということではないのです。 必要なのは「壁を作らない」ということだけです。 向こうから怖い人が歩いてきたら、その「怖い」という感情を充分に感じて観察してください。 危ない運転をする車に、危うく轢かれそうになったら、 「危なかった、怖かった」 あるいは 「助かって良かった」 という感情を充分に感じ、観察してください。 「あの運転手は許せない」 と思ったら、その時の感情自体も充分に感じ、観察してみるのです。 「あの車も運転手も、自分自身なのだ」 ということを思い出してください。 壁を作るということは、自らに制限を作るということです。 「ここからここまでが私です」 こんな風にです。 このプロセスを中止し、目の前の世界を、あなたと再統合していってください。 赤ちゃんの綺麗で純真なまなざしを、思い浮かべてください。 どうでしょう。 「でも、大変だぞ。これまでに作ってきた無数の壁を、一つ一つ消去していくなんて。一生かかっても、果たして終わるかどうか…」 こんな風に心配しなくても大丈夫です。 さて、最後にひとつだけ素敵なことをお伝えしましょう。 信じられませんか? では、試しにドミノをひとつだけ、倒してみましょう。 全ては、この最初の「たったひとつのドミノ」から始まるのです。
ブログ公開と同時に、たくさんの方にお越し頂き、感謝します。 掲示板とかでなく、自分のブログでお会いできるのって、なかなか楽しいですね。 …なんかカタいな(笑)。 このブログをどういった形で展開するのか、方向性を模索中です。 「動き出せば何か見えてくるだろう」といった感じでスタートしたので、元々ノープランであることに変わりはないんですが、「これだ!」という「軸」が、まだ見えてきていないんですよね。 公開後四日くらいじゃ当たり前か(笑)。 誤解を恐れずに言うと、引き寄せスレッドでの質疑応答は、私にとっては楽でした。 答えの方も勝手に湧いてくるので、私は表現方法などのフィニッシュの部分だけ、心がけていれば良かったんです。 私のしていたことは、多少乱暴に言えば、ただのリアクションです。 自らの抱えている問題を簡潔にまとめて、不特定多数の見ている掲示板で問いかけている、質問者の皆さんの方がよっぽど凄いと思いますよ。勇気がいることだと思いますし。 よく「丁寧な対応に頭が下がります」とか書かれて恐縮していたんですが、回答の内容に頭を煩わせたことは、ほとんどありません。 質問内容が深刻でも、現れてきた答えがシンプルすぎて、自分で「えっ!?」となることが良くありました。 スレッドでの質疑応答で、私が一番学んだことは「インスピレーションを信頼しなさい」ということでした。 あと「はじめの一歩」は、やはり重要だと思いました。 今年の1月8日に「どんな質問でも答えます」と大見得を切っていなければ、そして次々と質問してくれた皆さんがいなければ、今現在に至るプロセスはありませんでした。 「ザ・チケット」も世に出ていなかったはずです。 そう考えると、やはり人生を動かしているのは「エゴ」ではなく、もっとはるかに大きな存在の力なのだなぁ、と改めて思います。 …で、今後の展開ですが、 ・質疑応答について これをブログでやるかどうかは、まだ決めていません。 コメントに個別レスをしないのも、この部分があるからです。 ま、「対応しない」という選択肢もあるわけですが(笑)、それだと個別レスを始めといて何だ!ってことになります。 それに質疑応答をこちらでやり出すと、引き寄せスレにいる意味もなくなってしまう、ということもあります。 …まぁ、取りあえず、じっくり考えますわ(笑)。 今のところは、コラムをメインコンテンツにしようかなと思ってるんですが、これも展開次第でどうなるか分かりません。 当面はこういった雑記的なものも含めて、何らかは短いスパンで発信し続けたい、とは思ってますので。 …てことで、コラムの「壁〜その2〜」は、近日中に公開します。 どうぞお楽しみに〜。 |
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